剣持日録抄(平成八年)

 
   雅澄日記抄(平成八年)
   二月三日(土)晴
鈴木先生に紹介されて、下林の石川ふさ江さん宅訪問。歌文集『白梅』『続白梅』もらってくる。特攻の妻、愛児二人の子育て、遺族会の仕事など、亡き母に似る。それに、大野原戦没者名簿を借りてくる。先輩作品集として、観一文芸誌『燧洋』にでも紹介してあげようか。
   三月三十一日(日)晴
満洲一人旅。瀋陽中山大酒店(ホテル)を出て、一日奉天市内をカバン提げて歩きわる。父が引揚げを待って病死した和平区、中央ロータリには毛沢東巨像。瀋陽北駅、付近は貧民窟。中国語は使えず、ただ黙々と流亡の民なる父になって歩きまわる。四十四歳の客死。六十歳の子が慰霊に来る。                      四月二十六日(金)晴
悲劇は突然降って湧く。朝六時松井脳外科の温美姉手術との電話あり、かけつける。大丈夫と観一遠足に行くも、三時半帰るのを待ちかねたように、息を引き取る。なんとあっけない命であったことか。年子として生きて来て一年半しか違わない姉弟。母よりも三つ若く六十歳だった。
 六月十日(月)曇
大平正芳総理の十七回忌で豊浜墓地公園に行く。二百人ほど参列者のある法要の末席をけがする。『在素知贅』『大平総理発言集』鉛筆二ダース、おぼろ饅頭二個、封筒に入れてもらう。学校用のももらう。一国一城の主とならば、このくらいのことはしてあげても何の不思議もないのだろう。
 九月二十二日(日)晴
志々島の軍人墓地にはきれいな花がいつも供えられていると聞いていたが、それは造花だった。過疎化の島の手段として、非難したくない。それに驚いたことは、両墓性。大楠の下で心優しい二人女性の歌を聴けるとは。「時は身じろぎもせず悠久のまま千年の古都…」美声に日頃の孤心が吹っ飛んでいった。
十一月十一日(月)曇後雨
観一図書館だより「リベルタ」に「観一出身十人の文学者~観一文学は志の文学である~」と題して一面全部をもらって紹介文を書く。高橋和巳の「志の文学」が中心。全校生に渡せるのがうれしい。大した反応はなかろうが、きちんとした印刷物として後世に遺せるのがうれしい。
 十二月二十七日(金)晴
今日は神田川原で故近藤律先輩にめぐり会ったことで感涙に咽び、他のことはしたくなくなった。孤児故に、不憫に思う。倒れかからむとする墓碑。直す者なし。親があれば、直しもしよう、花筒に花も供えよう。近ければこの孤児先輩の墓に時にはお参りしてあげるのに。