剣持日録抄(平成9年)

     
雅澄日記抄(平成八年)
二月三日()
鈴木先生に紹介されて、下林の石川ふさ江さん宅訪問。歌文集『白梅』『続白梅』もらってくる。特攻の妻、愛児二人の子育て、遺族会の仕事など、亡き母に似る。それに、大野原戦没者名簿を借りてくる。先輩作品集として、観一文芸誌『燧洋』にでも紹介してあげようか。
三月三十一日()
満洲一人旅。瀋陽中山大酒店(ホテル)を出て、一日奉天市内をカバン提げて歩ききわる。父が引揚げを待って病死した和平区、中央ロータリには毛沢東巨像。瀋陽北駅、付近は貧民窟。中国語は使えず、ただ黙々と流亡の民なる父になって歩きまわる。四十四歳の客死。六十歳の子が慰霊に来る。                                                                                                                                                                                                                                                                 
  雅澄日記抄(平成九年)
   一月五日(日)雨
流岡の西蓮寺前の小西恵美子さん訪問。歓待を受け聞き書きを十分する。若き日夫君は満洲からシベリヤに抑留、かの地で病死したという。「ハイラルシベリア戦友会だより」もらう。慰霊訪問にシベリアに行くと、当地の住民が憐れんでくれて、列をなし供華しに来てくれた写真を見せてもらう。
 四月二十二日(火)雨
「士やもむなしかるべき万世に語り継ぐべき名は立てずして」教員生活三十八年目、最後の年。万世に語り継ぐべき文章など綴れぬまま、六十を迎えようとしている。余生は全て万世に語り継ぐべき文学を創出しなければならない。その前に母校の先輩戦没者全員二百余命を記録し弔っておきたい。
 六月二十一日(土)曇
三中出身戦没者植田町の平岡久幸家を訪問。痴呆症の母親が九一歳でまだ生きていた。「久幸がそこにおる」と言うのだそうだ。息子に死なれた親は戦後五十年生きてなお、決して忘れることはなく、その名を言い続ける。岸壁の母がここにもいた。我が母も生きていれば九三歳になる。
 七月十六日(水)晴
戦没者遺児による慰霊友好親善訪問で東北班として満洲に来て六日目。ハルピン市内見学後、彼女の家族の名を王常影に書いてもらい、発音習っただけ。新民大民明十区が住所。一行二十名、明日は北京、万里の長城を見て二十日に日本に帰国の予定。
 十月二十日(月)晴
夕方四時、石川宙夫先輩と晩翠で会う。共著『鎮魂譜』の内容分担の確認が中心。前半は先輩による戦歴全貌の総括、後半は自分が担当の個人記録。これまでもそのつもりでやって来たが、細かいところまで詰める。いろいろ話していると、夜十時まで六時間も話し込んでいた。
 十一月二十二日(土)雨後曇
終日AV教室準備室で職員忘年会用VTR十分もの、映像ほぼ完成。明日はBGMを入れる。NHK土曜ポップJでいいものを録音できてうれしい。岡本真夜の新曲「サヨナラ」、ZEROの新曲「ユアマイラブ」それにイントロ曲、エンディング曲を入れる予定である。
 十二月三十一日(水)晴
一人で生きることを学んだ。一人で生きる楽しさ、充実感。誰も頼る者なきすがすがしさ。この世に未練なくて、なおかつ集中してできるものがある喜び。今やっていることの後に何があるのかないのか知らない。紅白で「さとうきび畑」を南こうせつ「きれいな歌」とは何事だ。