こんな人 あんな人

        こんな人 あんな人
                                    剣持雅澄
 自分の家の前の路傍に墓碑があっても参ろうとはせず、ただ自分の夫の墓参は絶えずして、想夫恋のような歌は作り続けている。他人の戦死者の墓を参る義務はないと言えばない。その人には係累がなく今は見捨てられていても、他人は他人なのかもしれない。戦争未亡人は再婚もせず遺児を女手一つで育て、戦後七十年生きて来た。
 自分の家の子はいい大学を出ていると自慢そうに言いふらす。人の気持も知らないで、それは鼻しらむ行為である。孫自慢をする浅はかな婆ちゃんたちも多い。子も孫もいない人だっている。いてもうまくいっていない人だっている。そんなこと、お構いなしにおのろけを言う。困ったものだ。自分自身は大したこともないのに、子や孫の自慢をするのは止めてほしい。やっかみではない。正真正銘その人の人間性を疑うから言っているのだ。
 軍人墓地の墓碑には戦没年月日・享年・戦没地を刻むだけでもいい。親の名前もあった方がいいかもしれない。学歴は要らない。今、学歴は一般に書かないことになっている。自分の家の子が東大出ているからとて刻み込み、人の家の子が高等科を出ているからとて同様に碑文に刻むことはない。死ねば皆平等である。本当に偉い人は学歴など問題にしない。
 日清・日露戦争の時から太平洋戦争まで、すべて一律に同じ大きさの石碑にして、すべてその町内は同様にして、刻むことも必要最小限にしている地区がある。全国稀に見る軍人墓地の模範になっている。生存中は致し方ないが、死ねば皆平等なのである。戦時中は将兵の上下関係は厳格だったが、死後は皆等しく同列の仏となる。それを墓石で表している。それが太陽の町(仁尾町)である。土地柄がそうしたとも言えるかもしれないが、そこに住む人柄の優しさがそうしたと言った方がよかろう。中心になられた方は、覚城院から仁和寺御門跡になった森諦園住職、またはその先代が思い浮かぶ。
 この軍人墓地には女性の墓碑もある。戦没者とされているが、もちろん戦闘員ではない。沖縄本島で亡くなっているが、詳細は分からない。仁尾町『忠魂録』には軍人慰問団(芸道)として沖縄に渡って日本軍に奉仕、享年二十七歳で戦死している。
このように軍人墓地には女性も祀られている。父が広島市憲兵として転属したのに従って行き、そこで海軍監督局に勤務中原爆死した。十八歳の若さであった。高瀬の中坊寺域の墓地コーナーに墓碑がある。
 戦死したはずの人がひょっこり帰った話をよく聞く。グアム島に長く隠れ住んでいて戦後何十年を経て見つけられた横井庄一さんは有名であろう。
それによく似た人が近くにいた。戦後間もなく公報が来たので、戦死したものとみなされていた。ところが、数年後グアム島から軍服姿で帰ってきた。上官に突撃を命ぜられても、それに従わなかったと述懐していた。
 人は皆死んでゆく。一人一人の生の軌跡、死の様相を記していたら、たまらない。古今東西無限の生死を語り尽くせないし、どれほどの意味があるか。誰の生が尊くて、誰の死が空しいかと定めることもできない。他に隔絶して功績があり、特長のある人を相対的に選び取ることはできるのであろう。ただ、それも主観が交じり、価値観が違えば、縁なき衆生ともなるし、特別視する人として祀り上げられる。
 肉身の死は誰しも耐え難い忍苦になろうし、連れ合いの死の方が心を傷める人もあろう。更には、特別敬愛する崇拝者の死を衝撃的に受け取る人もあろう。できることなら、そのような死は先送りして、新聞で訃報欄を見て「あの人この人」の死を他人事として見過ごす毎日でありたい。
 あの時代を共に生きた人ならば、せめて生きている間に思い出を語っておきたいものである。語り部となり、戦時を知らない人に空々しく語るのは淋しいものである。自分にはあまり関係のない昔話を聞くのが億劫だったように、自分が語る番になれば、相手の顔色を伺いながらにしたいものだ。
問わず語り、これは年寄の通弊である。ここに述べた戦争にまつわる自分の思い出の人々も、まずは他人に実感をもって痛切に受け取ってもらえないはずである。ただ、自分の覚え書きとして記し留め、いつか誰かの参考にもなり、心に触れる一言があるならば、それで満足したい。
 人生の大方は、あるいは全ては些事である。過ぎ去れば、なかったも同然である。その時は居ても立ってもいられない混乱動転していても、時が解決してくれて、限りなく零に近づき、本当に無に帰する。それはなんと嬉しいことではないか。
 あれほど嫌だった人も、あれほど好きだった人も、いつのまにか死んでいっている。あれほどお互いに憎しみ合っていた者もどちらも死んでいっている。あれほど仲の良かった者もどちらも死んでいっている。その進行形もいずれ過去完了となる。
あんな人こんな人、いろいろあっていい。人に嫌気がさしたら、野に咲く花を見るに限る、これで十分慰められる。