裁縫先生

 
      裁縫先生
                                 剣持雅澄
 母は裁縫先生と呼ばれていた。
 小学校で長い間裁縫専任教師をしていたし、退職後も家で嫁入り前の娘に裁縫を教えたり、縫い物の賃仕事をしたりしていた。全科を教える教師でありたかったが、家が貧しく女学校にも師範学校にも行けなかった。小学校から高等科二年まで級長で成績優秀であったが、父親が病死して八人兄弟でもあって、進学はとうてい望めなかった。
 ただ半年間、裁縫教員養成所に通えば、代用教員から始まる助教諭にはなれる道を許された。その資金さえない貧家であったが、母親がなんとか融通をつけてやった。すぐ上の姉の方が器用で、裁縫は自分の方が得意で巧いのにというやっかみがあったようだ。家族に迷惑をかけないように、麦稈真田などを編む副職の手伝いなどもして、家計の足しにしようと心がけるのだった。
 十八歳で箕浦小学校の裁縫教員として勤めを始めた。大正十一年一月から三月までは代用教員であった。四月からは柞田小学校訓導として正式採用された。姫浜の親元から一里余りの学校である。古代から栄え伊予街道柞田駅もあった三豊平野の真中にある柞田村。この地に縁あって嫁ぐことになり、
十二年後に私が生まれる。長男が生まれてすぐ死に、その後長女、次女が生まれた後、やっと後継者の次男私が生まれる。
 父も柞田小学校の教師で、母と一緒に勤めていたのは二年ほどあったようだが、その時のことを詳しく聞いたことはない。とにかく、貧農の父の家に母は嫁してくれた。
 母は典型的な明治の女で、良妻賢母であった。満洲から送られた父の遺言状には
 妻信子に告ぐ。何事も理解し、優しく、内助の功を全うしてくれた。報いる何物もなくて済まぬ。遺産の第一は三人の子供だ…と続く。
 遺産と言っても、この遺された三人の子供を育てるために苦労することになる。遺族年金と扶助料では苦しく、母は針仕事をして子供三人を育てることになる。国民学校二年生の一人息子私、四年生の次女、女学校二年生の長女、この三人を女手一つで育てていかなければならないのである。
 二反余りの田畑はやっと口過ぎできるくらいのもので、そこからの収入は得られない。他所の家のように働く主人がいて、現金収入があるところとは違う。それゆえに、じっとしていられない母は手仕事として縫物をしていたのだった。
 戦後まだ一般に行き渡っていない足踏みミシンを買い入れた。手縫いとは違って、はかどった。
 上糸と下糸を針の穴に通すのに母は目が悪かったので、私が通してあげることもあった。母は近視で乱視でもあった。いつもというのではないが、私が近くにいるときは頼まれることがあった。
 母は人から頼まれる縫物は何でも引き受けた。
着物をほどいて、モンペにしてほしいと頼まれればそれに応えた。破れたズボンの脛当てもうまく目立たぬように継ぎ当てをすることもできた。
 更には、私の上服もズボンもすべて母が父の残していた服装の布地を転用して縫い直してくれた。足袋も手袋も帽子も、なんでもかんでもすべて買わずに、母の手で作ってくれた。
 最も思い出深いのは、草野球用のグローブとミットである。グローブは五本の指を一つ一つ縫っていくのが大変で、一つしか作ってくれなかったが、ミットは簡単にできるので、二つ三つ作ってくれた。それを近所の友達にもあげて、いっしょに草野球を楽しんだ。