葡萄の美酒 夜光の杯

 
 昔人はいい酒を飲んでいた。
葡萄美酒夜光杯, 欲飲琵琶馬上催。 酔臥沙場君莫笑, 古来征戦幾人回。
 (葡萄の美酒夜光の杯。飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す。
 酔うて沙場に臥す、君笑うことなかれ。古来征戦幾人か回る)
盛唐の詩人王翰の「涼州詞」としてよく知られている唐詩。戦場に征く前に別れの飲酒。祝い酒とも自棄酒とも一口には言えないが、酩酊するほど飲んでいる。再び還って来られないかもしれない(死の覚悟)気持ちが籠っている。許されていい酒であるし、泥酔して醜態を曝け出しても誰も咎めだてはしないであろう。むしろ読者はこの飲み手に同情もし共感さえするのではなかろうか。
 一般に、酒飲みに対する風当たりは強い。特に酒を飲まない、毛嫌いする女性なんかにかかると、ひどい仕打ちを受ける。嫌煙権はあっても、嫌酒権はないはずである。
酒癖が悪く、からんでいったりしない限りは止めさせることはできまい。
 傍にいてもお酌してあげないことで、その人の気持は察知できる。自分で注いで飲みなさいとは言わないが、そうなのである。さしつさされつ、お互いに酌み交わすのは通常の酒の場である。
 日本人の清酒は小さな杯のやり取りが昔からの習わしで、返盃をしないのは礼儀に反することになっている。「酒の飲み方も知らない無礼者」とみなされ、後々の付き合いにも影響する。「わしの盃が受け取れんのか」と詰め寄られることはかつてはあった。「お流れを頂戴します」という言葉も使えなければ、先輩を奉ったことにはならない。目上の人かどうかも、酒の席では忘れない方がいい。「無礼講」とは言いながら、部下に同等以下に接しられて喜ばない上司が多い。
 職場の上下関係をそのまま持ち込んでいる酒の場などには参加しない方がいい。まったく役職など関係のない、そのことを度外視した、気心の合う人と飲みたいものである。
 ところが、そうとばかりはいかないのが、現実である。自慢話と悪口を言うのが好きな人が多い。そのために酒を飲んでいるのだから救われない。人の辛い話などに耳を貸そうとはしない。そんな辛気臭い他人の話しなど聞きたくもないのである。
 こちらが聞いてもないのに、子や孫の自慢話をして平気なのである。人が言っていると機嫌を悪くしていながら、自分の方は平気で言うのである。
 たとえ酒の席でも、学歴はタブーである。自分が一流大学を出ていることを言わないにしても、「学歴は一生付きまとうものだからな」「後から付け加えられないものだからな」と念を押す。止めてくれと言いたい。教師が生徒に進学指導で言うのは分かるが、一般の人にしかもコンプレックスを持ってそのことを気にしている人に向かって言うのはだめだ。そのことだけで人間失格である。行きたくても行けなかった人もいる。一流大学とは一般には言われないところを出ている人もある。なんでバーのカウンターで気持ちよく飲んでいるときにそんなことを言うのか。その人がたとえ立派な教師であっても、人間的にはよろしくない。
 口が裂けても、酒の場であっても言うべきではないことは、山ほどある。一つひとつ挙げる必要はなかろう。聞くに堪えない、もう一度飲み直さなければ気が収まらない場合があるかもしれない。
 また、その席に上司が居なければ、上司の悪口を言い合う。ただ留意しておかなければならないのは、密告する人もいないではない。その人が少しランクを上げてくれたのは、その密告をした上司の見返りだと後に分かる場合もある。
 
 酒の場で聖人君子の名で呼ばれるのも手柄ではない。皆の輪の中に入ろうとせず、崩さないのである。それでせめて愉快そうにして、普段と違ってにこやかに話すくらいはしたいものである。ぽろりとこぼす本音が人間関係をよくする。深酒はしなくとも、酒の場の雰囲気だけは大切にしたいものである。
 数十年、酒の場も多少乗り越えてきて、人間の裏面(本性)を見せつけられた気がする。修羅場も見てきた。言いたくないことだが、喧嘩(それの嵩じた刃傷沙汰)にも接してきた。もうそういう酒の場には入っていくことはない。いい酒を飲みたい。独酌に限るとは言わない。やっぱり肝胆相照らす人、心の通い合う友人と酌み交わしたい。それも適うまいから、五十歳の芭蕉か、七十歳の西行の亡霊とでも風雅に月光を浴びながら酌み交わしたい。(Fin)