豊浜への道

 
           燧灘沿岸 豊浜への道
                                                    剣持雅澄 
 山田から花稲を通って豊浜への浜街道の歩道。これは自分のために付けてくれた道のような気がする。歩道とは思えぬ広い道。車道にしてもいいくらい数メートルある。そしてほとんど人は通らない贅沢な道だ。ほとんど姫浜一の宮まで通じている。本道は左にカーブするが、一の宮へは海沿いに直進する。
 人工の養浜になっていて、昔の鄙びた海岸ではなくなっているが、辛抱している。
20年ほど前に造成された時は、反逆心が強かったが、今ではもうこれでもいいかという気持ちになっている。
 海水浴場には埋め立てられて芝生の公園ができて、のびのびとした遊び場になっているが、遊びたい気にはなれない。老人がクロッケーをしたりしている。砂浜との段差は数段のコンクリートが長く伸びている。砂浜にはどこからか砂を持ってきて遠浅の砂浜にしている。ハマグリ・アサリ・マテガイなどは住み着いていない。堤防で囲われた外側は昔のままの遠浅の砂浜で、花稲海岸に続いている。ここには200羽ほどのウミネコ留鳥として住み着いている。シギ・サギなどもいるが、ごく少数である。
 伊吹島が鯨型に見えている。無人島の大股・小股島も左手に小さく見える。それ以外の島は見えにくい。
 豊浜の中心部は埋め立てられて、工場が誘致されている。富士紡の工場は全て取り除かれ、今は何もない、広大な空き地になっている。太陽光発電が設置されることにはなっているようだが、その動きは見受けられない。豊浜町役場(現在は観音寺市役所豊浜支所)があって、その西側が和田浜である。豊浜墓地公園が200メートルほど海岸に添ってある。半世紀ほど前、国道11号線が敷設された時、墓地はすべてまとめられ、整然と区画され、ここに陣取っている。三豊平野(観音寺市三豊市)でこれほど立派な墓地はない。
 大平正芳総理の墓所もこの墓地公園の入り口、高台の上にある。年中供華の枯れている時はない。一国一城の主であった、郷土の誇りである人の墓所である。
 香川県で総理を輩出したのはここだけ。西讃の観音寺市豊浜町和田の片田舎である。
  母の里「大久保家」の墓地がある。今は没落して後継者は不在、住居もない。あるのは墓碑十一基だけである。祖父(覚治)・祖母(良)の墓碑、大久保家累代之墓などである。祖母は昭和三十六年七月十八日八十二歳で亡くなった。実家は萩原で、父親は俳人門脇隆三である。
 和田浜の海辺は自然海岸である。ハマゴウ・ボウフウなどが自由に繁茂している。保護植物などと指定して管理する公園とは違って、ここにこそ真の自然海岸がある。
 墓地公園の境として防潮堤はあるが、姫浜一の宮海岸のような養浜ではない。ここ和田浜に観光客は全く来ないので、塵芥が打ち寄せられていても、そのままになっていて見苦しいが、気にしないでおこう。
ここから西には箕浦が続く。山が迫り、遠浅の砂浜はない。地形が(米をさびる)箕に似ていることから名づけられた。岬は余木崎と言い、愛媛県との県境となっている。ここには西行伝説の歌碑がある。
 200年前、伊能忠敬はここから讃岐に入っていった。豊浜から伊吹島にも渡り、また引き返して、豊浜・花稲・観音寺浦へと海岸線を測量していった。
ここは燧灘の南東に面していて、夕日が海に沈むのが眺められる。朝日は讃岐山脈から出て、夕日は燧灘の果てに入る。対岸は広島方面で瀬戸の島々に夕日は隠れるのだろうが、いつも霞んでいて、ほとんど水平線に沈んでいくように思われる。
夕日の美しく見える海岸である。瀬戸内海国立公園有明浜までで、豊浜はその圏外となる。公園のしばりがないところがいい。公園法に縛られていない。
ここには伝説の西行が息づく。漂泊の西行が和田雨乞い踊り唄に登場する。
 西行法師の物語かよ/聞くにつけては情をばかけよ/かけされおかけやれ/めされよ花は散りてもまたも咲く/人は若きに返らぬものを…
 和田地区では、今も夏の夕方、盆踊りふうに唄い踊られる。香川県指定の民俗伝統文化として受け継がれている。
 讃岐最果て和田に続く箕浦鄙びた地域として静かに息づいている。ただ、国道十一号線一本で香川愛媛を結んでいるので、県境辺りは切迫感があって慌ただしい。
 
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