芭蕉、その造化随順の志向

   
     造化に従ひ、造化に返れ    芭蕉
 
 芭蕉もどきの句を詠んだとてどうしようもない。現代をそして未来に通じる新しい俳道を切り拓くためには、芭蕉おろか、子規・虚子の伝統墨守からも進出しなければならない。そうした動きが昭和・平成へと筍のように出てきたのであった。それらを追えばどうなるのでもない。まさに多岐亡羊、行き着くところは泥沼にすぎなかろう。君子危うきに近寄らずである。
 しからば、己に何かできるものがあるか、太刀打ちできる伝家の宝刀はあるのかと詰め寄られたら、何を示せるか。残念ながらそんな代物はない。あるのは、虚勢張るむなしい影だけである。
 努めよ、汝のないはずの胸の奥処の、〈ものをひねり出す力〉を、唯一それだけが己の微力である。火打石があれば、それに点火してみよ。生き残る方便はわずかにそれだけであることを肝に銘じたまえ。
 そうなのだ。だれも何もただでくれはしない。自分の内奥にある生きる微かな力を原点としてはばたくしかないのだ。いつまでも親に頼っていてはならない。動物たちを見よ。人間のように親子は同居しているか。
 孤立無援の思想を人は持たねばならない。失っているとするならば、回復しなければならない。いつまでも甘えてはならない。甘い汁を吸っていてはならない。世の中の苦渋を嘗めなければならない。
 文学は説諭ではない。感じ取るしかない、一人の人間の自ずからなる悟りがあって初めて功を奏する。と言っても、宗教ではない。芭蕉は宗教に染まなかった。一見僧体をしていても、お説教をたり、念仏を言ったことはない。西行法師に憧れながら、芭蕉法師にはならなかった。なれなかったかのように言っているが、ならなかった。
 天地創造の主である造化自然に従うこと、造化に返ることを自分の究極の生き方としたのであった。自然に分け入ることによって見えて来るもの、、自然に参入することによって感じられたものを即句にすること、そこに自分の生の本質・本道を見出したのであった。まさに芸道の真髄を会得した先人の生き方に通じる新しい俳道を、その真髄を感得した尊い発見であった。

芭蕉講座」3「芭蕉の周辺」より【造化(自然)に返れ】
「文学の周辺」とは、時代・宗教・自然との関連、自他の影響関係等においてその文学を捉えようとする視点である。
 特に注目すべきはは、後代への影響の大きさである。日本の近代俳人は言うに及ばず、海外への俳句受容の代表として芭蕉を筆頭に挙げている。ソ連ポーランド・西ドイツフランス・イギリス、そして、アメリカでは「『奥の細道』研究」「『猿蓑』全訳」など海外にも芭蕉俳諧文学が受容されていることが紹介されている。
 芭蕉の「自然観」は「造化にしたがひ造化にかへれ」という『笈の小文』の一句に尽きる。芭蕉にとって「自然」とは存在する万物個々が、天および道に従うことであり、それは造化に従ひ造化にかえることである。個々それぞれのあり方そのものが「自然」なのである。
「松のことは松に習へ」という『三冊子』の有名なことばも知られていよう。 個である松そのものの中に宇宙そのものがあるとする思想である。詮ずるところ、芭蕉の「自然」とは個である己自身のことであった。
 芭蕉の真蹟に「自然」がある。(注に曰く、天に従ふを道と謂ひ、道に従ふを自然と謂ふ)