子規・虚子の芭蕉受容

 
   ~芭蕉を子規・虚子はどうとらえたか~
 
 目に見えない時は過ぎてゆく。それを知らずに老いて朽ち果てる生きものの愚かさ。そんな説教じみたことは言わない芭蕉は、月日は百代の過客と喩える。比喩は空想にして、文学の原点である。
  それをそのまま額面通り受け取って満足するのは、実利主義の大方の世の風潮である。そういう俗の次元から遊離して、心の世界に遊べるならば、芸術の入口に
立つものであろう。
 芭蕉はそこにとどまらず、自分独自の文芸の世界に参入し、独自の俳諧の道に邁進することができた。これも才能である。自分だけに許された独創の才に気がつき、伸ばせるものを悟っていた。
芭蕉の句はいいものばかりではない」
「ほとんど駄句ばかり」
 そんなに貶すのも自由であるが、残された二三十句、煎じ詰めて数句の次元に誰が肩を並べることができるだろうか。偶像化されてしまったとはいえ、芭蕉を超える俳諧・俳風を樹立し得ている人があるなら、言ってほしい。
 蕪村・一茶、子規・虚子、あるいは他に誰をここに対立候補を挙げることができようか。個人の好みから揚げたてるのは自由であるが、俳諧史の流れの中で特筆できる人でなければなるまい。
「子規があれほど蕪村を好み、芭蕉を評価しなかったのを知らないのか」
「子規が…」
「子規が『芭蕉雑談』で言っているではないか。子規さん、現代語に言い換えたまえ」
「ならば、途中ところどころ省きつつ、少し訳出しておこう。
…古今の歴史を観、世間の実際を察すると、人の名誉は多くその年齢に比例しているようだ。ただ文学者・技術家では、殊に熟練を要する者なので、〈黄口の少年〉〈青面の書生〉には成し難い筋もあるだろう。わが国に古来の文学者・美術家を見ると、名を一世に揚げ誉れを万歳に垂れる者は、多くは長寿の人だなあ。歌聖と称せられる柿本人麿、その年齡を詳かにしないけれど、数朝に歴仕しているようで、長寿を保ったことは疑いない。
 また、多数の崇拝者を得た芭蕉はどうだろう。人は皆芭蕉を翁と尊んでいる。
芭蕉は宗教家に似ている。ただ、その多数の信仰者は、芭蕉の性行を知ってのことではない。芭蕉の俳句を誦して、それを感ずると言うのでもない。ただ芭蕉という名の尊とくもなつかしくも思われて、かりそめの談話にも芭蕉翁と呼び、あるいは芭蕉様とぶこと、ちょうど宗教信者が大師様・お祖師様などと称えるに異ならず。はなはだしいのは神と崇めて廟を建て、本尊と称して堂を立てるのは、決して一文学者として芭蕉を観ているのではない。
 石碑を建て、宴会を催し、連俳を廻らし、運座を興行すること、文学者としての義務ではない。
 我はもとより芭蕉宗の信者ではないので、その二百年忌に会っても嬉しくもない、悲しくもない。
 芭蕉の俳句は、過半悪句・駄句をもって埋められ、上乗と称すべきものは、その何十分の一の少数に過ぎない。玉石混交といったところである。
平安朝以後、日本の文学(殊に韻文)は縁語、滑稽、理屈に陥って、七、八百年の間毫もこの範囲外に超脱し、真成の文学的観念を発揮したものがなかった。徳川の初世に至って文学の衰退その極に達し、和歌も連歌俳諧和文漢詩・漢文も、拙なるものとなってしまった。このように暗雲にとざされたる文運は、元禄以後に至って漸くその光輝を見せてきた。
 俳諧松尾芭蕉が出て、漢詩・漢文に荻生徂徠が出て、和歌に賀茂真淵本居宣長が出て、各派の文学を中興し、始めて我が国に真成の文学的観念を見るに至った。連歌はこの時から跡を絶った。  
 日本文学の上に高尚超脱の文学的観念を始めて注入したのは芭蕉である…
講釈はここまでにしておこう」
「子規さんは結局芭蕉を貶しているのでありましょうか」
「それは違う。今も言ったように、盲目的信仰をするのはよろしくないということだ」
「いや、何にしても自分が気に入ったら、ひたすら信仰するもので、それがなければ人生殺伐としてくるものでしょう」
「そんなことはない。思い込みは罪ですぜ。よく眼を開けて目の前のものを見詰めること、これがすべての始まりで、それ以上の詮索をしないこと」
「詮索はいけないのですか」
「そうだ。こじ開けてみるのは、場合によっては探究心があっていいかもしれぬが、憶測邪推はいけない。ともすると、人は自分の狭量な視野に囚われて思い込みがちになるものだ。こんなことは今まで誰にも言ったことはないし、書き綴ったこともない。そなたの誘導尋問にかかって、口をすべらしたようなものか」
「ところで、客観写生とか花鳥諷詠とかいうのは弟子の虚子のことばでしたか」
「そういうことにしてくれていい。自分の言わんとすることを簡潔にまとめてくれたが、客観写生営業は営業戦略であるかもしれん。何はともあれ、ありのまま写生することが句作の根本に据えなければならん」
「一休みしながら追々語ってくだされ」
「写生は、絵かきの中村不折から示唆を得ている」
「慧眼の子規先生であってみれば、いちはやくこの新生面に気づかれたのでありましょう。
江戸時代以来の旧態墨守の月並俳句の固陋さかのの超克でしょうか」
「そんな難しい言い方をしてくれなくていい。腐れ縁から解き放たれて縁を断ち切って、自分でものを見ることなのだ。単純なのだよ」
「『俳諧大要』にはこうありましたね。
…俳句をものにするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり。初学の 人概ね空想に倚るを常とす。空想尽くる時は写実に倚らざるべからず…
意地悪な質問をすると、文学は空想を楽しむものであって、ありのままをそのまま写したって、それだけのことであって、何の面白味もないではありませぬか」
「そう思うのも自由であるが、自分はそうは思わない。信念として〈写生〉〈スケッチ〉する心から新しいものが生まれる。この生み出す心根がなければ、いつか腐っていくことになる。
はてさて、次の忌日句はいかが。

  芭蕉忌や我俳諧の奈良茶漬け 子規
  蕪村忌の風呂吹くふや四十人  〃  」
{
芭蕉は敬遠されてか、忌日に茶漬け飯を一人食べるのですか。それに対して。蕪村忌には門弟たちを数十人集めて夕食会ですか。これだけで二人に対する敬愛の念に温度差があるように受け取れますよね」
「子規の弟子、虚子は芭蕉の影響を受けているかどうか」
「山門も伽藍も花の雲の上      虚子
 花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉
 
  花の雨降りこめられて謡かな   虚子
 花の陰謡に似たる旅寝かな   芭蕉

 
 結縁は疑もなき花盛り       虚子
 うたがふな潮の花も浦の春    芭蕉
 
 このように並べてみると、虚子は芭蕉の句を読み、自分もよく似た句を詠んでいるとも言えるのではないか」
「それだけのことか」
「それだけではなく、子規のようには芭蕉を嫌っていたとは思われない。
 虚子は芭蕉の偉大さを〈造化の懐に入って森羅万象と触接しここに大熱情大同感をもって深く天地山川の神と融合せし点に在り〉と言っている。
 虚子の持論である〈客観写生〉は、対象を見たままにありのまま詠むこと、更に〈花鳥諷詠〉を主張しました。
 子規が俳句革新運動を起こし、それを受け継いだ虚子が芭蕉や蕪村などの大切にすると同時に、自分たちが生きている時代を重視する俳句にして、新生面を打ち出したのでしょう」