芭蕉の受容やいかに

 目に見えない時は過ぎてゆく。それを知らずに老いて朽ち果てる生きものの愚かさ。そんな説教じみたことは言わない芭蕉は、月日は百代の過客と喩える。比喩は空想にして、文学の原点である。
 それをそのまま額面通り受け取って満足するのは、実利主義の大方の世の風潮である。そういう俗の次元から遊離して、心の世界に遊べるならば、芸術の入口に立つものであろう。
 芭蕉はそこにとどまらず、自分独自の文芸の世界に参入し、独自の俳諧の道に邁進することができた。これも才能である。自分だけに許された独創の才に気がつき、伸ばせるものを悟っていた。
芭蕉の句はいいものばかりではない」
「ほとんど駄句ばかり」
 そんなに貶すのも自由であるが、残された二三十句、煎じ詰めて数句の次元に誰が肩を並べることができるだろうか。偶像化されてしまったとはいえ、芭蕉を超える俳諧・俳風を樹立し得ている人があるなら、言ってほしい。

 蕪村・一茶、子規・虚子、あるいは他に誰をここに対立候補を挙げることができようか。個人の好みから揚げたてるのは自由であるが、俳諧史の流れの中で特筆できる人でなければなるまい。
 曰く言い難き芭蕉を超える事績のある俳人とは誰であろうか。
 仮に日本俳諧・俳句史を概観してみよう。
江戸時代の俳諧発句と近代の俳句とは、まったく別のものだという考えがある。現代の俳句は、現代詩の一種と見る立場からである。
 昭和初年代から十年代にかけての新興俳句や、大戦後の前衛俳句などは、俳諧の発句とはかかわりのないところに立っているだろうが、俳句は俳諧に深くかかわり、伝統的な形式を受け継ぐ文芸として、それは宿命ともいうべきことであろう。
 俳諧を否定しようとすることも俳句史の一つの活力であるとは言えよう。明治の新派俳句は、それまで無批判に尊重されてきた芭蕉よりも、蕪村の詩趣を新しい目標とした。芭蕉尊重と蕪村尊重という相反する力が、俳句史を活性化している。
大正期の俳壇では、蕪村の世界に変わるかのように、一茶の生活感が新鮮に受け止められ、更には、あらためて芭蕉の哲理の深さが顧みられた。   
 明治・大正の頃の俳句にとっての伝統は、偉大な個人であり、芭蕉・蕪村・一茶という個人の名前が、伝統そのものの重さをもっていた。
石田波郷は、蕉門の撰集『猿蓑』に多くを学ぶことによって、古典に競い立とうとした。波郷にとっての古典は、芭蕉という個人ではなく、『猿蓑』の作品群であった。波郷は蕉風の表現には関心を持っても、芭蕉という主体そのものには、それほどの関心を示さなかった。
 戦後俳壇における伝統への回顧は、桑原武夫の第二芸術論の衝撃と無関係ではなかった。桑原のフランス文学の素養による基準によって、俳句を裁断的に批判するのに対し、山本健吉は古典俳諧の別趣の価値を論じ、俳句の本質がそこに由来することを説きながら、柔軟に俳句の意義を認めようとした。
 
 
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               芭蕉は子規に批判され、蕪村は共感された。