小品「芭蕉讃岐行」

    (一)懸命さはあるか
 余は芭蕉だ。この自惚れがない限り、今芭蕉の旅は始まらない。何のことはない。俺が元禄の讃岐を歩けば、『芭蕉讃岐行』は自ずから生まれ出るのである。天下泰平の平成の世と元禄の世が重なるか否かは知ったことではない。ひたすら300余年前を幻影するしかない。今そこにあるものから当時を透視するイマジネーションがなければならない。左様、芭蕉が自分であり、見える以上のものを感じ取る力が要る。大丈夫か。これまでひ弱に生きてきたその体躯で、現そ身の自分を超克し得しえるか。それが問題だ。それがすべてだ。それがなければ、お前の浅はかな幻視行「芭蕉の旅」など止めたらいい。他人の褌で相撲を取る櫂さんのような「芭蕉の海遍路」の表層撫でに終わってしまう。止まれ、遊行の俳諧師よ、四国行脚の懸命さはあるか。
 
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   (二)有難きすがた拝まん杜若
 これが我が讃岐行発願の大本にあるということを言っておかねばなるまい。
そのことを解き明かすには、ちと繁にして要を得ないと思うが、ここは辛抱してしばらく聞いてもらいたい。
 この一句をしたためたのは、奥の細道の旅に出る前の年、元禄元年四月廿五日
付惣七宛書簡に「山崎宗鑑が旧跡」と前書があっての詠である。そこは山崎の離宮八幡北の竹林の中にあった。近衛殿の「宗鑑がすがたを見れば餓鬼つばた」とけなされて詠まれたのを敬意と名誉回復の意味をこめて作り変えたのだった。
 以前から宗鑑を俳聖とみなして、三聖図賛をしたためたこともある。
  「三翁は風雅の天工を受け得て、心匠を万歳につたふ。このかげにあそばむもの、誰か俳言をあふがざらむや」
 そして、宗鑑を筆頭にあげ、守武・貞徳と続けた。 
   月花のこれやまことのあるじ達
 
    (三)呑まむとすれば夏の沢水
 宗鑑の付句がすでにあったことを知らねばならない。前句「宗鑑がすがたを見れば餓鬼つばた」と痩せ衰えた自分をあざ笑われても、まともな句に立て直した一句である。宗鑑以来二百年を経た元禄の今も敬するに品格があるとみたい。宗鑑を下世話な句を作る野卑なものと蔑むのは当たらない。その書体と共に、残された連
歌の言葉の多彩さを見落としてはなるまい。雅俗折衷体とも言える措辞は敬するに値すると思っている。この基本的観念を抜きにして「俳諧連歌」を論ずることはできないだろう。これから讃岐に参り、その終焉の地を訪れることになっても、このことを不思議がることは全くない。行くべきところへ行く必然の旅ということになるはずだ。
 
      (四)風にまかせて
 自己告白はもっとしておかねばなるまいな。元禄三年四月十日付、大垣藩士近藤如行宛手紙の中にこんなことを書き添えたこともある。誰にすがろうとするわけでもなく、愚痴のようなものだった。
  持病下血などたびたび、秋旅四国・西国もけしからずと、先おもひとどめ候。乍  去、備前あたりよりかならずとまねくものも御座候へば、ふと風にまかせ候まで難 定候。
 これでお分かりになるはずだが、痔病で出血がひどく、海を渡っての四国への旅は諦めかけていた。齢五十路に近くなっているし、無念ではあるが断念せざるをえないことだった。ただ、しがらみのないわが身は、翻然と漂泊の旅に出るのは身についていたものなのだ。
 
   (五) 須磨・明石
 須磨・明石は師北村季吟より『源氏物語』の講義で知っているが、それよりは軍記物語にも語られている平敦盛「青葉の笛」に心惹かれる。『笈の小文』に記した
   須磨寺やふかぬ笛きく木下闇
 続いて「明石夜泊」と題した次の一句で余が西国への果てとなっている。
   蛸壺やはかなき夢を夏の月
 淡路島も手に取るように見えるが、古戦場としての屋島の四国讃岐に渡りたい。この宿願を果たせていない。命ある間になんとかして海を越え、四国に渡ってみたい。そういえば、川舟には何度も乗ったことがあっても、瀬戸内海を舟で渡ったことはない。年老いて体調もよくないわが身を考えれば、生きて帰れないかもしれない冒険である四国行。無謀としか言いようがないだろう。それでも行きたい。行ってみたい。
    
     (六)四国のどこへ
 屋島の古戦場へも行きたい。源平の戦いの跡を偲びたい。行って佐藤継信を弔ってやりたい。崇徳上皇の白峯に参詣したい。西行はそこから空海の出生地善通寺に行っているから、そこへも行きたい。更には、讃岐の西の端興昌寺・一夜庵にもぜひ行かねばならない。俳諧の鼻祖山崎宗鑑は、百五十年も前室町末期の人ながら、我が先師である。滑稽諧謔に堕したとも言われるが、それだけではない、庶民感覚があって親しめる。その親密感は、お高く留まる堂上連歌と違った地下連歌のよさがある。その味わいを捨ててはならない。大事にしなければならない。
 
     (七)風待ち潮待ち
 四国に渡るには備前の日比、渋川辺りからが都合がいい。西行は四国讃岐に渡ろうとする時、足止めをくらっている、。「風悪しくてほど経にける」と『山家集』にある。何日か風の凪ぐのを待っていたようだ。その時、海岸で幼子が何か拾っているのを見て詠んだ歌が残されている。
   下り立ちて浦田に拾ふ海人の子はつみより罪を習ふなりけり
 生類を大切にする仏教徒として生き物を大切にしない俗人の子を非難している。
同様の内容の歌が数首引かれている。
 
     (八)夢は枯野を
 これまで諸国に流離して俳諧の道筋を付つけむとしてきた。ただその成果がどれほど得られたかは疑わしい。行く先々で見るもの、聞くものには心してそのものになりきるように努めてきた。「笈の小文」「更科紀行」そして「奥の細道」の決死の旅からも生還して、もう旅する所はないかと言うに、そんなことはない。西国が残っている。中国・四国・九州である。その気になれば、これまでに行けなかったことはない。ただ申し訳ないが、どうしてもという切迫した所がなかった。しいて言えば、源平の古戦場、屋島・壇ノ浦、西行の心の旅路讃岐は夢の中に居座っている。
 
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      (九)たふとがる涙や染めて散る紅葉
 参詣する善男善女が仏の有り難さに流す涙が、この寺の紅葉を染めて、境内に散り敷く光景を詠んでいる。「元禄四年、神無月の初めつ方、月の沢ときこえ侍る明照寺に心を澄まして」近江の蕉門俳人李由が住職である寺で詠んだ一句。これを借りて西讃の高尾観音で詠んだものと仮想する。この寺の東南にそそり立つ高尾尾根の麓に一座の者が集い興じている。文学作品は、その作品が生まれた固有の土地でなければ味わえなければならないという法はない。むしろ、遍在する同類項に適用され、普遍性のある享受ができるところに文学の価値がある。どうしてもそこでなければならない特殊な地名はそれはそれとして、どこにでもある風景の中で景物に向かっていかに情念を込めて詠み創れるかどうかが勝負の分かれ目である。詩神の負託に応えて渾身の一句が作り上げられるや否や。(『笈日記』にある)
 
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       (十)涼しさや直(すぐ)に野松の枝の形(なり)
 郷里伊賀上野の雪芝亭(野松亭)で詠んだ句。松を手入れして枝を曲げ、人工を加えたものばかりが値打ちのあるものではあるまい。真っ直ぐに伸びた枝振りの野趣横溢している方を好む。高松に隣接する鬼無(きなし)は松の盆栽で知られているが、余の好むところではない。小賢しい作為を振り回す愚かさ。歪曲した松の枝にどれほどの美があるか。「涼しさ」は単に触覚ではなく、心の涼やかさ、清々しさをこめての詠嘆であり、一つの価値である。        (『笈日記』に拠る)