島木健作と香川県

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代表作「生活の探求」で周知の島木健作は、香川県木田郡三木町で過ごした昭和初年の体験が活かされている。その後、治安維持法で検挙されたが、釈放され「転向文学」としてこの小説を初め数編の名作を書いた。
 
 島木健作は、三木町平木在住時代は、作家としては、全く無名の存在であった。しかし、彼の平木在住の二年間の体験は、後に小説『再建』(一九三五年)『生活の探求』正・続(一九三七年・一九三八年)となって結実する。
 北海道札幌生まれの、二三歳の朝倉菊雄が、東北帝大法学部選科の学業を捨てて、四国の香川県木田郡平井町(現、三木町)大字平木に家を借りる。
 三月一五日に日本共産党の一斉大検挙(三・一五事件)が行われると二人は、直ちに治安維持法違反容疑の被告に切り換えられた。そして、朝倉菊雄は、その年の七月、大阪の拘置所に護送されるまで高松刑務所につながれることになる。
 次に紹介するのは、朝倉菊雄の高松刑務所からの便りの一部である。いずれも、『獄窓の同志より』からの引用である。
「再々書籍の差入を感謝す。但し二十日送附せられたる二冊は不許可となる。小生はもとよりその何の故たるを知らず。明敏なる君の推察に委ぬるのみ。書籍は………われわれと全然異なる反対の立場にあるものの著述でもいい。一定の動かざる立場あればすべて血となり肉となる。」 (高松刑務所 朝××雄)
 その後、浅倉菊雄は、一九二九年(昭和四年)、「再び政治運動に携わる意志はない」と、転向を表明。肺結核も悪化したが、仮釈放を許されたのは、一九三二年(昭和七年)の三月であった。政治的には、「転向」したものの、浅倉菊雄にとって、日農香川県連での体験と、「転向」とは、重いものであった。彼は、文学でもって「再転向」を試みる。
 一九三四年(昭和九年)、『癩』を書き上げ、島木健作の名でデビュー。
 『生活の探求』正・続は、香川県木田郡平井町(現、三木町)が舞台とされる。発表されたのは、一九三八年(昭和一三年)、一九三九年(昭和一四年)である。
 「島木謙作居住跡」「農民解放功労者記念碑」がある。