島比呂志 書くことは生きること

 
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 島比呂志の名がマスコミに大きく取り上げられるようになったのは、平成10年7月に国の責任を糺すために起こした裁判(「らい予防法」違憲国家賠償訴訟)、いわゆるハンセン病裁判の原告団名誉団長となってからである。そして、平成13年5月熊本地方裁判所は原告勝訴の判決を下し、国が控訴断念に追い込まれて、ハンセン病裁判は一応の決着を見たのである。
「書くことは生きることだ」と言った島比呂志はまた、作家であったことを記憶にとどめなければならない。
 物書きとしての出発は、童話である。童話は東京から帰郷し、実家に蟄居してから書いた。大島青松園で最初に書いた小説は「らい院監房」であった。出身地讃岐から訣別して桜島の国に逃れ、創刊した同人雑誌は「火山地帯」であった。偏見差別のない社会を願って集まった文学集団は、何よりヒューマニズムを目指し、その主宰者となった。著書も数多い。評論には『生きてあれば』『片居からの解放』『らい予防法と患者の人権』『裁判に花を』『生存宣言』等があり、詩集には『凝視』がある。
 作家島比呂志の晩年22年間を知る著者が、その苦闘の生涯を渾身の力を込めて書いた人物伝である。「島比呂志のことを書くのはこれで終わりではない。むしろ始まりである」という。時間が経てば、きっとまた別な島比呂志が見えてくるかもしれない。