高橋和巳作品論

 
  「捨子物語」論
 立命館大学における高橋和巳の在職期間は、就任昭和35年4月1日付、退職昭和39年12月31日付である。講師採用の査定は、中国文学科の白川静教授が当たった。
4人が応募し、その中で、京大の吉川幸次郎博士門下の六朝美文を研究している高橋和巳が、自費出版の小説『捨子物語』を提出。それを読み、教授はただならぬ才能を感じたという。
 冗長な連綿調の文体で綴られた処女長編小説。冒頭「その儀式が、日本の下層社会にのみ存する呪わしい風習なのかどうかはわからない」と捨子の風習から始まる。
 太平洋戦争末期、空襲で破壊されて行く大阪を舞台に、複雑に入り組んだ家族環境の下で育つ少年を描いて、死の淵にある自らの生の根源、そり在り方を問う作品。
 はからずも「捨子物語」のサブタイトルは、――幼而親日孤、老而無子日独――という孟子のことばである。この処女作としての運命性あるいは運命的であるがゆえに荷う孤独の感覚、その<宿痾の幻想>そして<消滅妄想>である。そこで彼の自我は孤独を、虚無を、懐疑を強いられたに等しかった。それらの近代的憂愁の中で≪自我への問い≫を放たざるをえなかった。「私は私の為したことの意味を知りたい、私の成しとげ得なかった志の価値を知りたい」として、「私と関係のあるものは、いったい何であるか」を問い続ける。この長編は次のように結ばれている。
 かつて港湾近くの路地に捨てられ、人の慈悲と虚偽に育まれた私の、恥じ多い幼年期との、それが完全な訣別だった。
 
  「悲の器」論
 「悲の器」(942枚)昭和37年第1回文芸賞(長編部門)を受賞。31歳和巳の文壇デビュー作。昭和初期の神無き知識人の心理を硬質な文体で暴き出している。実際は20代後半に書かれたものだが、初老の男の生涯と日本の戦中戦後における法の理論、時代錯誤を綿密に描いた力作である。戦中の国粋主義から、戦後の民主主義に転身する変わり身のしたたかさに対する批判がこの作品の主題の一つであると思われる。保守反動に対しても、学問の良心に忠実であるか、権力側に付いて保身を図るかの悩みがある。学園紛争の渦中にあって、自らも若き学者として同様の選択肢に迫られていた時代を生きていた。
 横糸には「誰が呼んでも、なんのことが書かれているのかわからん」密事を託して正木の翳りと憂愁がもう一つの主題ではある。二人の女性をめぐっての逡巡、身勝手さ、叶えられない苛立ちなどである。抑制的な表現の裏に読み取るべき男の女性観がこの作品には重く深く横たわっている。
 
 「散華」論
小説「散華」昭和38年7月号「文藝」掲載の短編小説。もと回天特攻隊員で戦後会社員となった主人公と、戦時中言論において特攻を扇動した老思想家(右翼理論家)との邂逅を描く。「散華の精神」を賛美謳歌したものでもなく、一方的に非難したものでもなく、「根本的に相対化」したところに作者の視点が置かれている。
 中津は自らの思想の結果を恥じ懺悔するために世捨て人となり、瀬戸内の孤島に遁世生活を送っていた。大家はその島を買収するために調査に赴き、中津と邂逅する。出会った当初は人を跳ね除けた中津だったが、次第に大家に関心と親近感を覚えていく。孤島で暮らす老人に触れる大家もまた同じく、自分の任を進めることもできずに無為に親密を深め、自己の中の矛盾や存在を問い詰めていく。
「あなたはむやみに自責すされる必要はないとわたしは思う。いや必要以上に自責することは、その人の良心であるよりも、むしろ、なお残る指導者根性の倨傲だとすらいえる。散華の思想は知りません。しかし散華の事実は、あなたの個人的言動に関係なかったのだから」かくして、最後は、互いの思想と現実の立場とが衝突し重大な諍いを生じ、物語は急展直下する。
 ミイラ化した腹部に軽く刀剣が突き刺さっていたところから、その死は覚悟の自殺であろうと思われるが、戦後十七年生き延びておりながら、ついに自殺して果てたことの動機は何も記されていない。日本民族にとっての不可避の主題〈死の哲学〉を究明した衝撃作。 昭和42年河出書房、昭和55年新潮文庫から同名の作品集として出版。
 
 「我が心は石にあらず」論
詩経国風』の「我心匪石(我が心石にあらず) 不可轉也(轉がすべからざるなり)」から得た中国文学者らしい書名。
 会社のエリートとして、組合のリーダーとして、また家庭人として、日々を真摯に生きる〈私〉がめぐりあった愛。一方、時代は高度成長期に入り、組合と経営の関係は緊迫して行く。戦後という変化の時代を背景に、愛を凝視し、「志の文学」の可能性を深く問いつめた哲学的作品。
 和巳の小説は思想であり、言葉に込められた信念であり、また知的誠実のこだわりである。それが彼の戦争体験と結びつくと、狂おしい情念となって破滅の道を突き進んでしまう。信藤誠にはストの敗北と太平洋戦争の敗北が重ねられて回想される。彼は敗戦を引きずっている。実ることなく破滅に向かった久米洋子との愛もまた痛切な悲哀に満ちているが、抑制された二人の愛の会話は本書の大きな知的魅力。彼がこだわった「観念」は、知識人としての〈矜持〉母校の校訓である。
 和巳はガンで死ぬ直前まで執筆をやめなかった。痩せ細って、鉛筆を握る指に力を込めたら指が折れたという。
 
 「堕落」論
長編小説「堕落ーあるいは、内なる曠野」は『文芸』昭和40年6月号に発表され、単行本としては昭和44年2月河出書房新社から出版された。4年もの歳月を要した理由として高橋は、次の三点を挙げている。まず、「考えつくすべき問題」として「満州」をとりあげたこと。次に、「日本人の昭和の精神史を内部から文学を通して反省し批判するという私自身の意図」。そのため、『堕落』が「より大規模な長篇に拡大されるべき内容をもってい」たということである。この高橋の自注が、『堕落』を「満州」を生み出した国家への批判、あるいは、戦時体制を払拭しなかった戦後社会への批判として読むことが要請される。
 主人公青木隆造は社会福祉事業団兼愛園の園長である。園長として表彰された時、突然その人格が崩壊し、堕落する。混血児の面倒を見るという戦後の慈善事業も、子どもを見捨てて逃げた曠野のイメージとは齟齬する。幻の国に理想を掲げた日本国家への次のような疑惑、詰問でこの作品は終わる。
「わずか十数年の命運しかもたなかったちけれども、この地球上に一つの国家を造ろうとしたのだ。…それはつかの間に滅びたけれども、いかなる王道、いかなる仁政もまた、それに先行する覇道の上にしか築かれない。いずれは滅びるものとしてのその覇道に私は荷担し参与した。さあ裁いてみよ。国家を建設するということがどういうことか、国家とは何であるか、あなた方に解っているなら、裁いてみよ。国家の名において裁いてみよ……」