柞田の歴史散歩②天王丘

     柞田の象徴「天王丘」の由来
①古代の「天王社」がある丘
 須賀神社は昔疫病が流行ったとき、京都の八坂神社より「天王社」を勧請したのが始まりで、牛馬の神として遠近の崇敬も厚かった。『西讃府志』では「天王宮」とある。
 須賀神社は、素戔嗚命・櫛稲田媛命・少彦名命の三柱が祭神。神社の創建は宇多天皇の寛平二年(八九〇年)正月と伝えられている。
 天皇菅原道真を起用し、仁和寺に隠棲するまで善政に努力された。
讃岐出身の円珍(智証大師)は、薬師如来の化身と言われた牛頭天王を京都祗園の八坂神社から勧請し、北岡村の守護神とした。
 牛頭(ごず)天王は素戔嗚命とも言われ、千百有余年の長きにわたり、病魔駆逐の神として郷民は言うまでもなく、近隣の郷村の人々からも「天王丘の天王はん」として崇敬されてきた。
②これに加えて、中世において柞田太夫貞重の天皇(土御門上皇)に対する忠誠を付加する場合もある。
 承久の乱(一二二一年)に敗れ自ら望んで土佐に配流になった八十三代土御門天皇に忠誠を尽くした柞田太夫貞重。柞田郷司であり、柞田城主でもあった。
 須賀神社の東側に建つ四石柱の一つ「武者問天皇」がその名残と見られる。柞田城主であった貞重は西軍土御門側に所属していたため、承久の乱後所領を没収された。
 その後人々は社域(十六坪)に小祠を建て、戦いに敗れ自害した忠臣柞田貞重を供養した。そこには石杭「武者問天皇」「バトー(馬頭)観音」「七福神」「運起神」を建てた。昭和十九年、馬場先、軍人墓地間に軍用道路貫通に当たり、これらの石碑は須賀神社境内東側に移動された。
 
 柞田小学校の百周年記念碑、校歌にもある「天王丘」。正式の地名「北岡」の高台にある柞田地区の象徴。伝承としての呼称「天王丘」は須賀神社の祭神につながり、更には中世の土御門上皇(天皇)に殉じた柞田太夫貞重にも連関させる。
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   「北岡」の中でも「天王社」を祀る須賀神社一帯の丘、これが「天王丘」
 
  一般に天王社(天皇神社)は、牛頭天王スサノオノミコトを祭神とする祇園信仰の神社。広くこの信仰に基づく神社名称としては、八坂神社が有名である。
 
 
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