雲辺寺ヶ原実弾射撃場

雲 辺 寺 山

雲辺寺山。海抜九一〇・七メートル、四国高野とも言われる雲辺寺がある。皆さんご承知でしょうか。香川県三豊平野に住む者にとってはまさにふるさとを代表する山でありますが、山頂が徳島県になるので、六六番札所雲辺寺徳島県の所属になっています。
 西讃三豊平野の真っ直中にある学校の校歌には、ほとんどこの山または山脈が歌われております。
「山はむらさき雲辺寺/あおぐ瞳もほがらかに…」〈観音寺市立柞田小学校校歌〉 
「讃岐の空に波うちて/紫におう山なみを…」〈観音寺市立中部中学校校歌〉       「青雲匂ひ陽に映る/さぬき山脈仰ぎつつ…」〈香川県立観音寺第一高等学校校歌〉
 これら小・中・高とも作詞者は脇太一氏であるのは、偶然かもしれませんが、この人は県下の校歌を数多く作詞されていますので、同一作者であることも不思議でないかもしれません。少し古い校歌では、旧三豊中学校校歌〈堀沢周安作詞〉が「長瀾寄する燧灘/彩雲なびく巨鼇山」となっていて、この画数の多く読みにくい巨鼇山が雲辺寺山号であります。
「鼇」とは、おおすっぽん、またはおおうみがめ〈想像上の大きなかめで、海中に住む〉のことで、この山全体がそのような格好に見えるところからこのような名称になったはずです。遠くから見ると、なるほど大きな亀の形に似ているようです。
雲辺寺に雪が積もっとるきに、寒いはずじゃなあ」と言う言葉をよく耳にするのですが、ここで言う雲辺寺雲辺寺山であり、もっと広く見て讃岐山脈を指しています。これまで、かつて阿讃山脈と呼ばれることが多かったようですが、最近は讃岐山脈と呼ぶ方が普通ではないでしょうか。その中で際立って秀麗というわけではなく、心持ち高くなった所に雲辺寺を建て、名前も雲辺寺山と呼ぶようになりました。字は特別難しいけれど、巨鼇山と言うのが本名かと思われます。
四国八十八ヶ所霊場のうち讃岐の霊場は、涅槃の霊場と言われます。その始まりはこの雲辺寺ともされ、微妙なところです。阿波に属するか、讃岐に属するか、そんな争いをすること自体あさましく、仏の道に反するでしょう。ただひたすらこの山深い遍路道を歩くのがよかろうと思います。一日は雲辺寺に捧げるつもりで、歩き遍路の醍醐味を味わってみたいものです。
 昔は山麓の五郷とか粟井から歩いて二,三時間かけて山頂まで登りました。汗をかいて登り、山頂から瀬戸内海、燧灘を一望したときは「おお、ワンダフル」です。今では、中腹の山麓駅から山頂駅までロープウェイで楽に登れるので、多くの方が、一度は行かれているのではないでしょうか。
さて、山麓駅近くに「雲辺寺ヶ原史跡広場」があることを紹介しておかなければなりません。ちょっとした広場にドーム型の監的哨が保存されていて、かつてこの地は砲兵の実弾射撃場であったことを説明板から読み取ることができます。ここを含めて三ヶ所の監的哨から射撃砲弾の着弾地点を観測していたのです。壁面にはわずかな隙間があって、そこから視界が広がってよく見届けられるようになっています。
かつて、善通寺の陸軍第十一師団が明治三十四年、陸軍用地として私有地を買収、その後昭和二十年の終戦まで四十余年間、実弾演習を続けて、砲声の轟く特別地域でありました。そのことはもう遠く過ぎ去ったことであり、思い起こす必要のないことかもしれません。
 乃木希典初代師団長が指揮を執り、休憩もしたという乃木松も戦後まもなく枯れてしまいました。その目印さえありません。地元ではそのような過ぎ去ったことを思い出させるようなものは、今さら記念として残したくない雰囲気であると伝え聞いております。
演習にここまで来て宿営した兵舎は戦後、地元の豊南中学校の校舎に使用されましたが、それも跡形がなくなっています。この兵舎は海岸寺の海岸にあった捕虜収容所の建物を移築したと聞いています。いずれも戦時中の忌まわしいものなので、残さないでよかったのでしょうか。しかし、たとえ負の遺産であっても、歴史を語る物はそう簡単に失ってはならないとひそかに惜しんでいます。
錆びた砲弾のかけら二、三片をもらいました。蜜柑畑で働いている人に声を掛けてみると、自分の畑を耕していると、実弾の炸裂したかけらが土中から出てきたというのです。縄文土器の出る可能性はまずありませんが、百年足らず前の砲弾破片が出てきても、不思議ではありますまい。たとえ負の遺産、その断片でありましても、時が経てば、歴史の証になるかもしれません。
イメージ 1
イメージ 5
       監的所(1)
 
イメージ 2
 
イメージ 3
  監的所(2)
 
イメージ 4
      監的所(3)  夏草に埋もれて踏み入れられず。