俳諧の風景、俳句の原点

    
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山崎 宗鑑(寛正6年~天文22年)は、本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、近江の出身とされるが、本名・出自については諸説あり、定かではない。
 将軍足利尚久に仕えた(近習・祐筆)が、義尚の陣没後出家し、尼崎または山城薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山崎に「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永の頃山崎の地を去り、享禄元年に讃岐国香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからといい、建物は修復を重ねながら現地に残されている。俳諧連歌のもっとも早い時期に編纂された俳諧撰集『犬菟玖波集』があるが、この僻陬の地で編まれたとは思われない。自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた。能筆家としても有名で生計は書を売ることによったとも言われる。 晩年「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失うことになる。辞世は「宗鑑はいづくへと人の問うあらば ちとよう(ヨウ)がありてあの世へといへ」と伝わるが、何の確証もない。
 
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         日本最古の俳句「貸夜着の袖をや霜に橋姫御  宗鑑」
   興昌寺所蔵の宗鑑直筆の短冊を拡大して句碑にしたもの。
俳諧の祖・山崎宗鑑終焉の栖【一夜庵】を詠んだ俳句・短歌には、次のようなものがあります。
       一夜庵の由来(伝承歌)
    上は立ち 中は日暮らし下は夜まで 一夜泊まりは 下々の下の客    
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             一夜庵を詠んだ句歌
   いなれぬや雪の下客の一夜庵       上島鬼貫
   花にあかでたとへばいつまでも一夜庵  西山宗因
   きはりぎりすさむしろゆるせ一夜庵     二六庵竹阿
   宗鑑の墓に花なき涼しさよ         高浜虚子
   此庵に短過ぎたる我日かな          巌谷小波
      松の奥には障子の白きに松          荻原井泉水
     浜から帰りても松の影ふむ砂の白きに  河東碧梧桐
      白芙蓉咲く傍へにて仰ぐなり一夜庵への木隠りの径   宮柊二
 
   「三豊の文化探訪」より
 山崎宗鑑といえば、観音寺興昌寺の住職梅谷を頼って、近くの山中に一夜庵を結んだことで知られています。十一月三日は、午前十時から興昌寺で一夜庵保存会による宗鑑忌が営まれ、午後には一夜庵で俳句会が催されます。
 宗鑑は、俳諧連歌の祖として伝えられていますが、彼の作品や連歌史全体に占める位置となると、今ひとつはっきりとはしていません。そしてそれ以上に謎に包まれているのが、彼の実人生です。
 宗鑑は、室町幕府の九代将軍足利義尚に近習あるいは祐筆として仕えていたと伝えられています。その宗鑑が、なぜ、四国は僻陬の地・観音寺興昌寺にまで下り、その山中に身を潜めることになったのでしょうか。
 将軍の陣没という思わぬ一大事に遭遇したとはいえ、尾崎放哉や山頭火にも似た、世の一切からのドロップアウトが、そこには感じられます。彼の作とされるものからも、その思いや行跡は、杳として見えてはきません。
 ただ、世の名利はむろん、自らの人生さえも笑い飛ばす、徹底した自由・諧謔の精神があるのみです。 その宗鑑がなぜこの地を終の棲家としたのか、私には尽きせぬ謎となっています。