柞田荘の荘域

      柞 田 荘
 柞田荘が初めて名を見せるのは、鎌倉時代前期の建長2年(1250)日吉社領としてである。江戸時代に編纂された古文書集『続左氶抄』には「柞田荘園四至傍示注文」が載せられている。それを略記すると、以下のようになる。
 
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 この艮傍示の建っているところは、柞田上出東北隅、西部養護学校の南側である。
 
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坤は野都合辺りと推定できる。埴穴(大野原花稲)と園生村(柞田油井)の境である。
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巽(東南)の境は大野原十三塚(井下家の多い地域)と柞田の接する辺りと推定できる。