支考の一夜庵訪問句(直筆短冊)

 
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    創庵以来半世紀になんなんとする日本最古の俳跡「一夜庵」
                      ~俳祖山崎宗鑑終焉の地~
 
  興昌寺に保存されている有名俳人直筆の短冊
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                     (上掲中央の短冊)
       松涼し鶴のこころにも一夜庵    (各務)支考  
              四国香川県観音寺市の宗鑑終焉の地を訪れて
 
        なお、各務支考は宝永2年讃岐に渡り、各地で発句を作っている。

      金毘羅山、神法楽…松葉散る嵐やそつと神の幣

      善通寺西行松…松を見て身を知る葛の若葉哉 

      観音寺、有明浜…ありあけの浜や昼顔咲きながら 

      琴弾八幡…琴の音や弓矢のいとま夕涼み 

      神恵院…さびしさはをのれ頼まじ閑古鳥 

      大野原…弓はりに放つ影ありほととぎす

 (参照)獅子庵
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芭蕉十哲・・・・宝井基角、向井去来服部嵐雪杉山杉風森川許六各務支考志太野坡越智越人、内藤丈草、立花北枝
幼少期に母を亡くし、姉の嫁ぎ先に入籍し、各務の姓となりました。その後、6才~19才までを大智寺第4世の弟子として大智寺に住居しました。当時の大智寺には多数の修業僧や小僧さんが生活しており、支考もまたその分に応じた仕事を続けつつ、文字・漢籍の知識を修得し、人間支考の基礎が養われたようです。
19歳の頃、還俗して京都や伊勢で和漢の学問を修めたのち、26歳にして蕉門に入り、2年後に『葛の松原』を発表。30歳のとき、芭蕉の『続猿蓑』の編集に加わるがその数ヶ月後、芭蕉が病没する。このとき芭蕉の遺書を代筆している。
その後、伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡って芭蕉の遺吟・遺文を集めて『笈日記』を著している。伊勢山田に草庵(十一庵)を結び拠点としている。『伊勢新百韻』を刊行したころから支考独自の作風が確立された。その後、九州・中国・【四国】・北陸など各地を精力的に旅し、句集や俳論などを盛んに出版。また多くの弟子を育成していく。