日本女子教育の魁・津田梅子

津田梅子 渡米
アメリカではジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン (英語版)夫妻の家に預けられる。5月には森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされるが10月には2名が帰国した。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に二人は助力する。
梅子は再びランマン家に預けられ、十数年を過ごすことになる。梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本へ宛てる手紙も英文で書くようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治6年(1873年)7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。明治11年(1878年)にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行している。明治14年(1881年)には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国する。
 帰国後の活動
 梅子らは帰国したものの、儒学の価値観が色濃く残る日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、山川捨松と永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁した。また、幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい[3]、日本的風習にも不慣れであった。明治16年(1883年)には、外務卿・井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。このころ父・仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。明治18年(1885年)には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった 明治19年(1886年)には職制変更で嘱託となる。
梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。やがて梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど、日本の結婚観に辟易して生涯未婚を誓う。明治21年(1888年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可される。明治22年(1889年)7月に再び渡米。
  ふたたび留学
 ブリンマー・カレッジ在学時(1890年(明治23年))
当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、ブリンマー・カレッジ (英語版) で生物学を専攻する。3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆。使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行う。梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしている。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行う。   〔以上引用〕
  ☆昨夜、深夜便で近代群像人物伝6人目で紹介される。ヘレンケラー・ナイチンゲールにも会っているとのこと。一途に日本女子教育に献身した人。