芭蕉、隠密説
生きている芭蕉像
しかし、これもカムフラージュの一要素、と言うべきかもしれない。著者は本書により、奥の細道の旅は曽良主体の東北隠密の旅だった、とするからだ。出立に際し巻かれた連句会には東山道、北陸道からの情報を統括していたと思われる大垣藩の武士が集っており、この旅の終わりもまた大垣であった。その後間もなく芭蕉は役目を終えて暗殺されたのではないか、とすら私なら深読みしたくなる、また、実は芭蕉はそこで逆に機転を利かし姿を眩まして四国への旅をまで続けたとまで深読みしたいとまで言えば、一笑に付される以上の事になるだろうものの、ともかく、芭蕉はこの旅の主体ではなく、「諜報員」曽良をサポートしガードする、場合によってはカムフラージュの役を果たすための文化芸人だったということになる。 そうではあるにせよ、当の芭蕉の俳文学は屈指のものになった。俳句、紀行文学、民俗学が含まれた先駆にして、最高の作品に結実した。数十年後には俳聖と神にまで祭り上げられた。しかし、芭蕉自身をそうさせたもの、それはやはり西行法師や母への変わらぬ思慕でも確かにあっただろうし、もっと言うと自身の出自にも関わる修験道的なものの総体的な解明までが端的にあったと言ってもいいかもしれない。 「母親は予州宇和島の産なり。桃地氏の娘なり。」という記録があって、このことについて考証しているが、その出自について結論は出されていない。
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