逆回り奥の細道


  〔大垣〕
 芭蕉の後ろ姿を追いながらの旅ではなく、芭蕉に真向かう逆回り奥の細道の旅を試みている。
まずは、結びの地大垣から始めた。「史跡奥の細道結びの地」には芭蕉の旅姿像が迎えてくれる。
白秋の柳川を想起させる掘割ふうの水門川。その両岸に句碑が立ち並び、その一つ一つに妙味がある。
 蛤塚。昭和三十二年、大垣市文化財協会建立になる。
  伊勢にまかりけるをひとの送りければ
   蛤のふたみに別行秋そ   はせを
 この時を含め、野ざらし覚悟に前後四回大垣に泊まっている。この地には芭蕉を慕う門弟たちが大勢いて、そのつど師を温かく迎え入れ、歌仙も巻かれている。

  〔敦賀
 気比神社辺りでの名月を詠んだ数句の後に、芭蕉は舟で色の浜のニ句がある。
    浪の間や小貝にまじる萩の塵   はせを
    衣着て小貝拾ハんいろの月    はせを
 「ますほの小貝ひろはん」とするのが目的であった。それも次の西行の歌があってのことである。
      潮染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とは言ふにやあるらん   西行
 西行の跡を慕って旅する芭蕉には欠かせない「ますほの小貝」「色の浜」である。
  芭蕉がこの地デ泊った宿は出雲屋デ、その跡ハレストラン梅田の辺と言われ、その前に「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の標柱が建てられている。色の浜ヘの行き方をここで尋ねると、壜に入れてある「ますほの小貝」を三つ分けてくれた。今はもう色の浜でこの小貝を拾うのは容易ではないとのこと。

  〔市振〕
 北陸本線市振駅無人駅である。下車時の切符は人のいない改札口の備え付けボックスに入れる。こののどかさが市振への第一印象をよくする。八月二十五日午後一時半この駅に降り立ち、芭蕉句碑を目指す。海沿いの道を歩いて十分、芭蕉の宿桔梗屋跡にたどり着く。ここには青海町文化財としての簡単な説明板と標柱がある。もちろん次の一句がしたためられている。
  一家に遊女もねたり萩と月    はせを
 自然石に刻まれた句碑は、そこから少し東に行った長圓てら境内に建てられている。大正十四年に糸魚川出身の文豪相馬御風の書による。七十数年を経ていて、読みづらい。
 市振郵便局が目につき、何かを求めて入っていく。「松尾芭蕉奥の細道』市振の宿」というチラシを出してくれる。芭蕉の宿桔梗屋のスケッチ、なぎさの道「親不知子不知」の松のスケッチが印刷されている。そこに80円切手を貼り、その日の記念スタンプを押してくれる。カレンダーを見ながら「芭蕉がここに来たのは明日ですね」と局員が言う。封筒に入れたり、あれこれしている間に時間が経ち、「ああ、もう九分しかない。駅まで走ったら間に合いますか」というと、局長らしき人が「じゃ、送ってあげますよ」と市振の駅まで送ってくれる。二度も三度も頭を下げてお礼を言う。
 芭蕉は「親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所」を越えたのである。今は車窓からつぶさに見ることはできない。