芭蕉の紀行文抄

 俳諧紀行。松尾芭蕉著、門人河合乙州編。芭蕉の没後、1709年刊。1687年江戸から尾張の鳴海を経て弟子の杜国を訪ね、伊賀・伊勢・吉野・奈良・大坂・須磨・明石をめぐった旅の紀行。「野ざらし紀行」の次、「おくのほそ道」の前に書かれた紀行文。

 百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。 終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る西行の和歌における、宋祇連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。 
岩城の住長太郎と云もの、此脇を付て其角において関送リせんともてなす。時は冬よしのをこめん旅のつと
 此句は露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包(つつみ)て志を見す。かの三月の糧を集むるに力を入れず。紙布・綿小などいふもの、帽子・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし、草庵に酒肴携へ来りて行衛を祝し、名残ををしみなどするこそ、ゆゑある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。
 抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿仏の尼の、文をふるひ情を尽してより、余は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。
 其日は雨降、昼より晴て、そこに松有り、かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云事なかれ。されども其所々の風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの種となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所々、跡や先やとその場その場に紙と筆を取りて書集侍るぞ、猶酔ル者の妄語にひとしく、いねる人の譫言するたぐひに見なして、人又亡聴せよ。  鳴海にとまりて  星崎の闇を見よとや啼千鳥
飛鳥井雅章公の、此宿にとまらせ給ひて、都も遠くなるみがた、はるけき海を中にへだてゝと詠じ給ひけるを、自かゝせたまひて、たまはりけるよしをあるじがかたるに、   京まではまだ半空や雪の雲
  弥生半ば過ぐる程、そゞろに浮き立つ心の花の、我を道引枝折となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童らしき名のさま、いと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。               
乾坤無住同行二人
よし野にて桜見せうぞ檜の木笠
               よし野にて我も見せうぞ檜の木笠  万菊丸

よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばゝれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が「是はゝ」と打なぐりたるに、われいはん言葉もなくていたづらに口をとぢたるいと口をし。おもひ立たる風流いかめしく侍れども、爰に至りて無興の事なり。
高野
ちゝはゝのしきりにこひし雉の声
      ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊
和歌
行春にわかの浦にて追付たり
きみ井寺
  跪はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実をうかがふ。猶、栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕にかへ晩食肉よりも甘し。とまるべき道にかぎりなく、立べき朝に時なし。只一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めんと計はいさゝのおもひなり。時々気を転じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし。日比は古めかし、かたくなゝりと悪み捨たる程の人も、辺土の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもうぞ、又是旅のひとつなりかし。 野ざらし紀行   衣更  一つぬいで後に負ぬ衣がへ  万菊     


       芭蕉の紀行文。貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて、芭蕉が門人の千里と出身地伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文。

     
 千里に旅立て、路粮を包まず。「三更月下無何に入」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。
  ざらしを心に風のしむ身かな 
  秋十年却て江戸を指故郷
関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。
  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
何某千里と云けるは、此度道の助けとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の交深く、朋友信有哉、此人。
  深川や芭蕉を富士に預行  千里
 
 
 富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。
小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
  猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪まれたる歟、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。
 
  長月の初、故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、同胞の鬢白く、眉皺寄て、只命有て、とのみ云て言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやや老たり、としばらく泣きて、
 手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜  

  独吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く、白雲峰に重り、煙雨谷を埋んで、山賤の家処々に小さく、西に木を伐音東に響き、院々の鐘の声は心の底にこたふ。
昔よりこの山に入て世を忘たる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土の廬山といはむも、またむべならずや。
  ある坊に一夜を借りて
 碪打て我に聞かせよや坊が妻
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計分け入ほど、柴人の通ふ道のみわづかに有て、嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。
彼とくとくの清水は昔に変はらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。
  露とくとく試みに浮世すすがばや
  若これ扶桑に伯夷あらば、必口をすすがん。もし是許由に告ば、耳を洗はむ。
山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所々見残して、先後醍醐帝御廟を拝む。
  御廟年経て忍は何をしのぶ草
 
 大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至る。今須・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける「義朝殿に似たる秋風」とはいづれの所か似たりけん。我も又、
 義朝の心に似たり秋の風
     不 破
  秋風や藪も畠も不破の関
大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ、
  死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮
 

 
               銀河の序

  芭蕉奥の細道行脚の途中この地に立ち寄り宿泊し、海辺の窓から夜の海を見て大宇宙を詠じた天下の名句、「荒海や佐渡によこたふ天河」とその序文。

 
北陸道に行脚して、越後の国出雲崎ちいふ所に泊まる。彼佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難の隈隈まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、ただおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたはらんむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。     あら海や佐渡に横たふあまの川 

         幻住庵の記
 元禄3年(1690)、『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉は大津義仲寺に滞在していたが、同年7月膳所藩主菅沼曲水の招きで大津岩間山中の庵「幻住庵」を訪れ、4ヵ月滞在した。この幻住庵での生活を描いた作品。

 石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、今は八年ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
 予また市中を去ること十年ばかりにして、五十年やや近き身は、蓑虫のを失ひ、蝸牛家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面をこがし、高砂子歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて、今歳湖水の波にただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき蘆の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらた
め、垣根ゆひそへなどして、卯月の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそ
みぬ。
さすがに、春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥しばしば過ぐるほ
ど、宿かし鳥のたよりさへあるを、啄木のつつくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂呉楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田山に古人を数ふ。ささほが嶽・千丈が峰・袴腰いふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん万葉集の姿なりけり。なほ眺望くまなからむと、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座を敷きて、猿の腰掛けと名付く。かの海棠に巣を営び、主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず。ただ睡癖山民と成って、孱顔に足を投げ出し、空山に虱を捫つて坐す。
 
         嵯峨日記
  芭蕉の日記。宝暦3年(1753)刊。元禄4年(1691)4月18日から5月4日まで京都嵯峨の去来の落柿舎に滞在した間の句文を収録。

 元禄四辛未卯月十八日 嵯峨にあそびて去来ガ落柿舎に到。凡兆共ニ来りて暮に及びて京ニ帰る。予ハ猶暫とゞむべき由にて、障子つゞくり、葎引きかなぐり、舎中の片隅一間なる所伏処ト定ム。机一、硯・文庫・白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語土佐日記・松葉集を置。并唐の蒔絵書たる五重の器にさまゞの菓子ヲ盛、名酒一壺盃を添たり。夜るの衾・調菜の物共、京より持来りて乏しからず。我貧賤をわすれて清閑ニ楽。

廿日 北嵯峨の祭見むと羽紅尼来る。
去来京より来る。途中の吟とて語る。
   つかみあふ子共の長や麦畠
落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、処ゝ頽破す。中ゝに作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫せし梁、描る壁も風に破れ雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるに、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ、
  柚の花や昔しのばん料理の間
  ほとゝぎす大竹藪をもる月夜
廿二日 朝の間雨降。けふは人もなくさびしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、
「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは楽あるじとす」
「さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる。
  山里にこは又誰をよぶこ鳥
    独すまむとおもひしものを
独住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士の曰「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂此言葉を常にあはれぶ。予も又、
   うき我をさびしがらせよかんこどり