琴弾文学碑への招待
①早苗塚スタート(琴弾公園石の鳥居南)
②木の鳥居(石段参道途中)
③遍路みちしるべ(石段山頂近く)
④弓張月(琴弾八幡宮本宮南)
琴弾八幡宮と『椿説弓張月』の謂われ 江戸時代の読本作家、滝沢馬琴の書いた「椿説弓張月」のなかに源為朝の妻白が観音寺、琴弾の宮で、夫の仇討ちをしたという話があります。為朝が京の戦いで敗れた時、鎮西太宰府の館を守っていた白縫は召使い八人とともに讃岐観音寺、琴弾の宮に落ち、神仏に夫の無事を祈っていました。 一方京では、破れ傷ついた為朝は家来の武藤太の家に身をひそめました。その時武藤太は「為朝を捕らえた者には過分のほうびをとらす」という敵方のおふれに目がくらんで密告したため為朝は八丈島に流されました。 主君を敵方に売った武藤太は、痴れ者として非難され居たたまれなくなって手下二人と西国に落ちました。流れ着いたのが讃岐の国室本の港(観音寺室本町)でした。港に上がった武藤太は武運に縁の深い琴弾の宮の近いのを知って参拝しました。 祈る言葉は悪人らしく、 為朝密告の恩賞が少なかった恨み言だったのです。白峰は拝殿に祈る男の言葉からその男が夫の仇だと知ったのです。「これこそ神の導き」と白縫は、ある月の夜酒宴と美女の琴で武藤太を誘い出し、みごと夫の敵を討ったのです。今も観音寺市琴弾八幡宮の境内には、この仇うちを伝える史跡が保存され観光客が絶えません。
⑤高橋藍川詩碑(象ヵ鼻西)
⑥堀野林治歌碑(〃)
⑦沓音天神(神恵院境内)
⑧一夜庵(興昌寺境内)
⑨宗鑑橋姫句碑