もって瞑すべし。

         満蒙開拓青少年義勇軍
 各都道府県で選抜された青少年300名を標準として中隊に組織し、加藤完治が所長を務める茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所(内原訓練所)で3ヵ月、武道及び体育と農作業の基礎訓練を受けた後に、満州国の現地訓練所にて3ヵ年の訓練を経て、義勇隊開拓団として入植した。この訓練教育期間は、満州国における「民族協和」の中核として開拓地の満州国の発展、さらには日満一体化に寄与することが期待された。
        香川県送出満蒙開拓青少年義勇軍渡満中隊
  昭和十六年からの国策で全国に募集し、毎年青少年を義勇軍として満洲に送出。
第一次 第二次 他県との混成中隊であった。第三次から香川県単独中隊となる。
       団名  訓練所 中隊名   渡満年月       渡満人員  入植地名
第三次 大蒙  嫩江  横山中隊  昭和一五年六月 三〇〇人  興安南省札賓
第四次 馬橋   対店    浅野中隊   昭和一六年五月 二四七人   牡丹江省
第五次 昭明  対店  野口中隊  昭和一七年五月 二一六人  北安省克山県
第六次      嫩江  河原中隊  昭和一八年五月 一八〇人  北安省嫩江県
第七次        寧安  戸田中隊  昭和一九年六月 二二〇人  牡丹江省
 第三次横山中隊が初めて香川県単独中隊を編成することができた。横山武平中隊長は戦後第三代観音寺市長となった。
 第四次中隊は浅野中隊長が途中転出のため原数栄五河林一般開拓団長が兼務
 第五次野口中隊は旧昭明開拓村に併合入殖、引揚げ直前奉天で戦病死した。
 当時三豊郡(現観音寺市)からは二人、豊田村の第三次横山中隊長、柞田村の第五次野口中隊長☆となって渡満し開拓団に関わった。
    ☆亡父野口勇は昭和21年3月12日、引揚げ直前奉天で戦病死するが、それでよかったと思っている。もし生きて帰ったら連れ帰しえなかった隊員の親御さんに申し訳なかったはずだ。昔、楚の項羽は子弟を郷里に連れ帰しえず自尽したように、父も割腹自殺したかもしれないと妄想する。「あなたのお父さんはそのくらいするような隊員思いだった」と言ってくれる人があった。もって瞑すべしである。