源平合戦の裏工作

源平合戦勝敗の分かれ目はここにあった……
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 これは琴弾八幡宮(観音寺市)の一の鳥居傍らの看板だ。
 義経の使者義盛が平家方の援軍伊予の田口教能(のりよし)に談判、足止めさせた裏工作が記されている。 『源平盛衰記』に書かれていることの要約である。
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一般には『平家物語』「志度合戦」にあるように志度(さぬき市)の出来事として扱われている。  どちらが正しいか、論の分かれるところである。
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【源平屋島合戦の由来】
 源平屋島合戦は「吾妻鏡」によると、寿永四年(1185年)、二月十九日から三日間の戦いだったとされている。ここ琴弾山が、この合戦での、源氏の勝利のゆかりの地であることを知る人は少ない。屋島での戦いは源氏が優勢のうちに進められていた。平家水軍の総大将、「能登守教経」は、起死回生の作戦として伊予大洲城主、「田口佐衛門教能」が伊予路の源氏勢を平定したあと一千騎を引き連れての到着を待って、屋島沖から手勢を加えて一挙に源氏勢を挟み撃ちにすることを考えていた。この作戦は順調に進んだかに見えたが、知将「義経」は夢の中に見た「教経」の幻影からこの作戦を見破っていた。屋島の源氏勢二百五十騎にとって敵一千騎の援軍では勝ち目のないことを知った「義経」は、腹心「伊勢三郎義盛」に命じ  「田口」勢が屋島に到着する前に説得によって食い止めることを図った。……

平家物語』( 第百三句 讒言梶原 )では、  
 同じく十九日、判官、伊勢の三郎義盛を召して、「阿波の民部成能が嫡子田内左衛門教能、河野を攻めに伊予の国へ越えたんなるが、これにいくさありと聞きて、今日はさだめて馳せ向かふらん。大勢入れたててはかなふまじ。なんぢ行き向かひ、よき様にこしらへて召して参れ」とのたまへば、伊勢の三郎、「さ候はば、御旗を賜はつて向かひ候はん」と申す。「もつともさるべし」とて、白旗をこそ賜はりけれ。 その十六騎にて向かふが、みな白装束なり。兵どもこれを見て、 「三千余騎が大将を、白装束十六騎にて向かひ、生捕にせんことありがたし」とぞ笑ひける。案のごとく、田内左衛門、「屋島にいくさありと聞きて馳せまゐる。道にて、義盛行き逢うたり。白
旗、ざつとさしあげければ、 「あはや、源氏よとて、これも赤旗さしあげたり。」