義盛、平家水軍援軍を押しとどめる。
『吾妻鏡』によると、元暦2年(1185年)3月24日壇ノ浦の戦いで、平家の総大将平宗盛と息子の清宗を捕らえている。4月26日平家の捕虜を京都に護送する際、宗盛らが乗る牛車の前に有力御家人である土肥実平が、後に義盛が付いている。
元暦2年(1185年)5月17日 義経が兄である源頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越に留まっていた時、義盛は頼朝の妹婿である一条能保の家人と些細な事から乱闘騒ぎを起こしている。義経と能保が仲裁に入って収まったが、騒ぎを聞いた頼朝は「義盛のごとき下っ端が驕っているなどけしからん」と憤慨し、いっそう義経の立場を悪くした。
文治元年(1185年)11月3日、義経と頼朝が対立し、義経が都を落ちる際にも同行する。九州へ向かう船が暴風雨により難破し一行が離散した後、義盛は単独で潜伏するが、伊勢・伊賀の守護である山内首藤経俊を襲撃するも敗れて鈴鹿山へ逃亡、文治2年(1186年)7月25日 鎌倉方に発見され斬首、梟首された(『玉葉』)。