ああ、粟島

     粟 島

 香川県詫間町粟島。
 船のスクリュー形の島で、城山・阿島山・紫谷山の三島が陸繋されてできた島。
周囲約十七キロ。過疎の波はこの島も例外でなく、平成十四年八月現在、二二四戸三九四人。小学生はわずか五人である。須田港と粟島港の間には一日八便の通船がある。
 粟島海員学校はすでに廃校となり、粟島海洋記念資料館となっている。その西側に梵音寺があって、その右手に隣接して粟島軍人墓地がある。一〇一柱一一五人の墓碑が整然と並び、まだ建てられる一七柱分が空となったままである。
 この軍人墓地の整備されたのは、昭和三十年三月で、粟島村が詫間町に合併された時である。永世平和、国家安穏を祈念しての建設で、門標には「忠誠殉国勇士之墓」と刻まれている。
 さて、粟島戦没者の特徴は軍属の多いことである。二人に一人が軍属で、他の地区の十人に一人というのと大違いである。この島は船員学校もあり、船員として陸海軍の船舶に乗っていた人が多かったためである。
 志々島は五軒に一軒しか人が住んでいない。粟島は二軒に一軒というくらいの過疎化である。志々島の軍人墓地はすべて造花で飾られ、かえってそれも又よしという気にさせられるが、粟島の場合はそれほど造花は備えられていなくてなんとか生花が供えられている。どの墓前にもかろうじて供花ありて、戦後五十七年の夏を迎えた。
 さて、ここで取って置きの話をしておこう。昭和十七年七月一日発行の「幼年倶楽部」という雑誌に載せられた粟島出身上田上等兵の壮烈な最期である。開戦間もない頃のビルマに派遣された上田正上等兵はトングで「爆薬抱へ城壁を抜く、真昼間血で拓いた突撃路」と新聞の見出しで紹介された「勇ましい大東亜戦争の話」である。肉弾三勇士(江下・北川・作江)は上海事変の時、廟行鎮で敵陣へ爆弾を抱えて飛び込んでゆき、「名誉の戦死を遂げた戦神」と称されたが、「ところが、こんどの大東亜戦争でも、その三勇士に劣らぬめざましいはたらきをした勇士があります」という語り口で話は展開する。
 高さ五メートル、厚さ二メートルの頑丈な煉瓦塀を打ち砕くために、十人の決死隊が二班に分かれ、初めの班は成功、後の班がうまくいかず、上田上等兵は特に責任感が強く、自分一人爆薬を抱え、もの凄い弾の中を突き進み、爆破させ命を落とした。
「上田伍長は花と散る、ところはビルマトングー城・・・」と当時粟島小学校の学芸会で上演したと言うのは檜垣賢造粟島遺族会会長。「緒戦の頃で、叔父の話は軍国心を煽り立てるものだった」と述懐するのは甥の上田護氏。四人の叔父の中三人戦死している。その母親(自分にとっては祖母)が「天皇陛下の写真を買わなかった気持がわかる」と言う。
 今、粟島は平和の波が打ち寄せる。馬城海岸の草群に忠魂碑が見え隠れするくらいで、戦争の傷跡は見られない。梵音寺境内には、粟島の平和と発展を祈念して献碑がある。
 島人に涅槃の鐘の鳴り渡る   美代
 平成九年、当地出身村中美代さんが喜寿祝に建立したものである。
 島内には他の俳人の木製句碑もあちこちにあって情緒をかもしている。
 注目すべきは須田港に建てられている万葉歌碑である。一本の木柱の三面に次の歌が書かれている。
  百づたふ八十の島廻を漕ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも   
                                 柿本人麿
  武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島を背向に見つゝ美しき小舟
                                 山部赤人
  粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒げり
                                 作者不詳
 詫間町粟島とは名ばかりのつながりであっても、万葉への親しみが感じられ、これもまた是としなければなるまい。
(粟島には軍人墓地がないと人が言うのを信じていたが、この度それを発見して「申し訳ありませんでした」という気持で書いた)