今は亡き母の日記より

     戦中戦後の母の日記抄
 昭和18年8月16日、是路来る。写真を借りて来て持ちかへす。義久の嫁にも少なからず気をもむ。 8月19日母から以前にもらったモスで服を作る。裁ち残りの布を集めて公子にとて一つ服を作る。12月10日午前中姫へ行ってくる。大根、菜等持って行き、練炭、小炭をつけて帰る。
 昭和19年1月2日、姫の母来る。酒一升瓶九つ背に負って。四方山話。6月18日、母義久と最後の日。再会の日を希ふ。7月1日是路ひょっくり来る。義久、中部太平洋最前線へ出発するとの便りを見て胸打たれる。
 昭和20年1月21日、是路くる。黒豆五合、芳男と二人へ。お茶二百匁、芳男より。ポマード二つ、是路よりもらふ。米二升是路へ。伝蔵宛名…沖縄県那覇郵便局気付琉球第1616部隊大竹隊。8月15日、陛下の重大放送、12時にあり。あゝ万事休すの感。国民の一人として、悲しみの淵にあり。9月9日、是路来る。大根種等持って。豆・茄子など持ち帰す。10月14日、10時までにスワガーを仕上げる。準備をして子供二人と姫の祭に行く。幾年ぶりに八幡さんの社頭に立つ。11月10日今月に入って夜又は朝、ひまひまにしてゐた仕事、恵子の上張二着、二時頃から夕方にかけてやっと出来る。12月24日、是路が義久の公報をもたらす。あゝ、つひに悲報に接す。号泣す。12月26日、姫からかへる。母一人気の毒でならぬ。義久の好きだった物を作って喜ばすこともできぬ。
 昭和21年4月3日、是路、浩子・公子を連れてくる。昼ごはんを食べさせる。かきを静子から、こんぶを芳男からことづかる。はぜ・まめなど煎ってやる。6月20日、最も悲しき日なり。英霊かへる。吉原さん、久保さん泊まる。8月20日、灯篭下げに是路来る。8月23日、雅澄初めて自転車で姫へ使ひに行ってくる。母・是路より鉛筆6本卵2ヶもらってくる。
 昭和22年4月18日、是路の三揃を裁つ。5月13日、先日是路が持ってきた『枕草子』を何回も読む。9月15日、義久よ、伝蔵よ、父よ、兄よ、そして昭よ、夫よ、その魂が雅澄に乗り移って、憂きことも苦しきことも慰められる。
 昭和23年1月5日、伝蔵の三回忌の追善供養を終へ、兄・静子等を駅へ見送る。10月17日、秋祭、是路・公子来る。