夜のしじまの呟き
夜のしじまの呟き
酒を飲むと自慢話をする、他人の思惑も考えない人が。子や孫の高学歴を吹聴する。そんなことは触れられたくない人が目の前にいるのもお構いなしにね。そうでなければ、他人の蔭口悪口を言う。職場の上司、先輩などに苛められている鬱憤を晴らすのである。同病相憐れむ、いわば共感する場合はいいとして、その中に告げ口する人が交っていれば大変だ。そんなことで左遷されたりしたらたまらない。退職後、じっと我慢していたことを漏らしてくれたりする。大体において、管理意識の強い者が管理職になっている。自分は絶対に管理職試験を受けなかった。なれなかったのではなく、なりたくなかったのである。そんなことを今ここにいたって自慢しているのではないし、負け惜しみで言っているのではない。地位や名誉や打算からして損得としてふりかかっても、節を屈するわけにはいかない。上に立ちたくないというような、本当の人格者が管理職になってほしいとまるめこもうとしたって、無駄であった。片意地に辞退した在職時代も懐かしいとは思わない。やっぱり人に使われる生活をして自分を失っていた現職時代は虚仮の時代であった。今は違う。本然の自己発揮、自己実現することが十全にできていて、ほぼ満足している。好きなことをして、人の顔色を伺うこともしないで生きている。余命いくばくもないとしても、それは甘受する。するしかない。それに精一杯時間を充実して過ごしたから、一年が三年くらいの値打ちあるものとして生きてきた。慢心かもしれないが、取り返しがつかないほど、浪費した過去の時間とは思わない。そして、何が残るかというのに、何も残らないと思う。残ると錯覚してもいいが、残した物は、次代の者がきれいに処分してくれる。心配することはない。何も残らないと思う。これほどさっぱりしたことはない。
清貧の思想と言うのも大袈裟で、時の流れに身を任せ、悠然と無に帰す悟りのようなものである。