唐木順三『無常』論


  詠嘆的無常から自覚的無常へ…『徒然草』の場合
兼好は初期においては、心の優位、心の働きを第一義と考え、詠嘆的無常に流されていた。ところが、時を経て、三四十段あたりから、心の優位が失われて、「心そのものも無常である」という認知にいたる。全く加齢による「認知症」の逆である。心を越えて無念無心から起こる「行」が説かれている。兼好は禅の影響を受けて、自覚的無常観に変化していったとみられる。文学史上における『徒然草』の画期性はここにあると著者唐木順三は論じている。
 参考までに、松岡正剛の兼好論の一節を挙げておく。
…兼好を見ていくと、「数寄」が好みを積極化していくのに対して、「すさび」はよしなごとであってなぐさみであるように、そこに受動というものがはたらいていることがうかがえる。それが兼好の「つれづれ」だった。だからこそ「あぢなきすさび」という奇妙な感覚も兼好の言葉になっていく。どうもそこには「質の変化」というものを観照する目がはたらいている…