わが国最古の俳句と俳跡「一夜庵」

西讃を歩く(「西讃を歩く」は太字)  1 宗鑑と一夜庵(「1 宗鑑と一夜庵」は太字 一夜庵は俳祖山崎宗鑑が晩年を過ごした草庵である。室町末期、興昌寺の住職梅谷和尚を頼って、京阪山崎から移り住んだ。遺筆として、当寺に紫金仏勧進帳(本堂再建の寄付集め趣意書)徳寿軒宛の書簡、「貸し夜着の袖をや霜にはし姫御」の短冊等があり、遺品として銅雀台の瓦硯、岩床の花瓶・自作の木彫半〔カ〕(#「カ」は文字番号37457)像等もある。句碑として前掲短冊句が一夜庵前に建立されている。 宗鑑が俳諧連歌師として『新撰犬筑波集』の編集に携わったことはほぼ定説になっているが、その閲歴のほどは定かではない。近江国志那郷(現、草津市支那町)出身で幼名弥三郎範重と言い、足利義尚の右筆となったが、その没後無常を感じ二五歳頃出家したと言われる。吉川一郎著『山崎宗鑑伝』によれば、当時宗鑑と名告る人が三人いたと言われ、その区別のしにくいところもある。謡本『百万』の奥書に「天文己亥二月日 宗鑑」とあり、一五三九年(天文八年)頃は生存していたということになる。吉川氏は宗鑑の死没を天文一〇年までの七月二二日とみなしている。その他諸説あるが、地元観音寺市に-175-おいては「俳家奇人談」の天文二二年一〇月二日八九歳没に従い、四〇〇年忌を昭和二六年一〇月二日に行っている。 辞世の歌として「宗鑑はいづこへと人の問ふあらばちと用ありてあの世へと言へ」という歌が伝えられている。滑稽俳諧を事として、深刻ぶらずに生きた宗鑑らしい歌ではある。『滑稽太平記』(延宝末頃刊行)には「宗鑑は長命成しが、〔ヨウ〕(ルビ よう)(#「ヨウ」は 文字番号22638)といふ物を病て」と説明を付けている。 また、同書には「上の客立帰り、中の客日帰り、下々の客泊がけ」と庵の額に書いておいたと記している。これがいわゆる「上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊まりは下々の下の客」の歌で親しまれる一夜庵の名の由来である。来客の長居を喜ばなかったというのが一般の見方であるが、それでもなお話しこむ客を求めていたのではないかという、うがった見方もある。宗鑑は求めに応じ〔ヨウ〕(#「ヨウ」は文字番号1007)書をよくしている。各地に宗鑑流の遺筆が散在している。県下にも少なくとも十数点はある。 宗鑑没後、一夜庵は荒れるにまかせていたらしいが、江戸時代になり俳人を中心として再興されるに至った。一六八一年(延宝九年)に無妄庵宗実坊が、岡西惟中を仲介として、西山宗因の勧進帳を請い受け、一夜庵造立を企画している。「宗鑑法師勧進帳」は宗因の直筆で、その主旨に賛同・協力し、同門の献句を載せている。三年後の貞享元年には北村季吟の自筆である「一夜庵再興賛」がある。また興昌寺には「一夜庵筆海」という短冊集二冊が保存されいる。約六〇〇句が集められている。 
花にあかでたとへばいつまででも一夜庵  西山宗因  ままよ世は夏も一夜の仮の庵          北村李吟  松涼し鶴の心にも一夜庵            各務支考  宗鑑の墓に花なき涼しさよ           高浜虚子  松の奥には障子の白きに松         荻原井泉水  浜から戻りても松の影ふむ砂白きに    河東碧梧桐                       現在、観音寺市滋賀県草津市姉妹都市の提携をして、文化の交流を図っている。宗鑑出生の地と終焉の地という因縁によるものである。昭和五九年、琵琶湖の葦が草津市から贈られ、一夜庵の屋根が葺き替えられた。一夜庵保存会が保存に当たっている。
             『香川の文学散歩』小生の分担執筆
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