村尾次郎著『鎮魂の賦』より

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 村尾次郎著『鎮魂の賦』〈伝統文化草書三〉より抜粋
              錦正社刊(平成七年八月十五日)
① 鎮魂神楽歌―留魂像にささぐー                         
 陸軍船舶幹部候補生隊出身の戦没者及び戦後物故隊友の霊を慰め、且つ、同部隊における真剣な教育活動の精神を永遠に伝へんがために留魂像の除幕式にあたりささげた歌。
澄みわたる  姫の渚の浜松に かこまれて立つ大き像(すがた)      
わたつみの 潮路はるけき彼方より きこゆるは友の雄叫び さやけし   
  (六連より成る荘重な神楽歌)
イメージ 2   三豊郡豊浜町姫浜北原一宮海岸                        
     除幕は昭和六十年十月十四日                            
  ② 「鎮魂―生者自身のみたまふり」                               「葬儀―みはふり」は死者の鎮魂                          
③ 戦争体験と歴史観伝授                               
   ● あかつき映ゆる瀬戸の海
  船舶幹部候補生隊は西隣の豊浜町にある富士紡績の工場を摂取してせつえいされていたので、戦争が終るとまたもとの紡績工場になっている。工場は海岸にあって、広さは五万坪、海の彼方には伊吹島が見える。工場の裏門を出ると築港があり、部隊のあったころには上陸用舟艇が目白押に並んでいたものだった。
終戦の年の一月の末に本部教育室勤務将校として着任した私は、三千人を越える幹部候補生の前で部隊長村中四郎大佐から紹介され、この指揮台に上って挨拶をした覚えがある。
  ●家永三郎氏『太平洋戦争』   ※筆者は教科書裁判で法廷闘争したので有名。  此の写真を〈見るに堪えない〉として顔をそむけるのと、あえて熟視して戦争の残酷さをかみしめるのと、どちらが心身健康な一人間、または平和を愛する一国民として一般的に正常であろうか。
  ●地のさざめごとひめやかに
 静岡高校出身の吉行淳之介は同期生たち二三の戦没者の思い出を語りながら、終りのところで、
 高橋和巳著『散華の精神』の題名の「散華」に「腹を立て」て食いつき、散華どころか犬死だ、「強制的に犬死させられた」のだと叫び、後に残った人々がそう認識することが、彼らに対する慰霊なのだと結んでいる。
  ●歴史観伝授のかなめ
 我々が炎暑を冒して四国くんだりまで出かけて行き、紡績工場の建物や築港のたたずまいを万感込めて眺めまわしていた時、二十歳前後の女子社員たちの若い眼が示していた好奇心の中味は、こちらの万感が何であるかを探ろうとするものではなく、しなびかけた中老人が発揮している異様な若やぎに驚いてちょっと興味を感じたといった程度のものであるに過ぎないのではあるまいか。