村尾次郎先生仮寓跡
留魂像建設委員長 村尾次郎
心の宿題を果して
陸軍船舶幹部候補生隊は、昭和十九年四月二十九日に広島の宇品から豊浜へ移ってきました。そのとき、私は候補生の一員でした。八月に卒業して見習士官になり、やがて翌年の一月に少尉になりました。幹候隊の教官として、豊浜にもどってきました。
豊浜では、はじめは姫浜に下宿しましたが、まもなく和田の梶谷へ引越して、終戦復員の日まで、毎日、のどかな農村を歩いて部隊へ通っていました。お世話になった大広栄枝さんのうちとは、いまでもお付合を続けております。
教官であった私の任務は、候補生の全員に、精神の支えとなるような、歴史や文学や、国際関係などについて講義をすることでした。
○大学の先生と同じことをしていたのです。
私の講義をきいた候補生たちは、次から次へと巣立って行きました。そして、少なからぬ若者が散華されました。このことは、私の心に深く刻みこまれており、教えた自分が無事に生きのびたことを、申し訳ないと思う気持が強く私の胸を打ち続けておりました。
このたび、留魂像の建設事業が決定いたしますと、はからずも建設委員長の大任を仰せ付かりました。それは、私に、心の問題を果せと命ずる天の声であったともいえましょう。幸い、建設現地の一宮神社は申すに及ばず、豊浜町をあげてのご声援、ご協賛をいただき、像を無事に完成いたしました。
豊浜では、はじめは姫浜に下宿しましたが、まもなく和田の梶谷へ引越して、終戦復員の日まで、毎日、のどかな農村を歩いて部隊へ通っていました。お世話になった大広栄枝さんのうちとは、いまでもお付合を続けております。
教官であった私の任務は、候補生の全員に、精神の支えとなるような、歴史や文学や、国際関係などについて講義をすることでした。
○大学の先生と同じことをしていたのです。
私の講義をきいた候補生たちは、次から次へと巣立って行きました。そして、少なからぬ若者が散華されました。このことは、私の心に深く刻みこまれており、教えた自分が無事に生きのびたことを、申し訳ないと思う気持が強く私の胸を打ち続けておりました。
このたび、留魂像の建設事業が決定いたしますと、はからずも建設委員長の大任を仰せ付かりました。それは、私に、心の問題を果せと命ずる天の声であったともいえましょう。幸い、建設現地の一宮神社は申すに及ばず、豊浜町をあげてのご声援、ご協賛をいただき、像を無事に完成いたしました。
★村尾 次郎(1914年(大正3年)9月20日 ~2006年(平成18年)12月9日)は、日本の歴史学者。横浜一中、静岡高等学校卒業後、1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部国史学科に進学後は平泉澄※の内弟子となり、学問・生活万般にわたって教導を受け、生涯の師と仰ぐに至った。1940年(昭和15年)、卒業と同時に東京帝国大学文学部助手となるも、1943年(昭和18年)3月、応召、歩兵より船舶兵科に転じ、陸軍船舶幹部候補生隊(暁部隊・香川県豊浜)本部教官として、学徒候補生と共に在った。戦後は、古代史専攻の学究生活に入り、1961年(昭和36年)、東京大学より「律令財政史の研究」により文学博士の学位を受けた。1951年(昭和26年)から富士短期大学につとめた後、1956年(昭和31年)、文部省に入り、教科書検定調査の任務に就き(文部省主任教科書調査官)、1965年(昭和40年)、家永三郎との「教科書訴訟」が起こると、被告国側証人として、東京地裁の法廷に立つこと三回に及んだ。1975年(昭和50年)、定年退官。日本の伝統文化を重視した高校教科書「最新日本史」を執筆。