剣持日録(平成七年)

 
  雅澄日記抄(平成七年)
 一月十七日(火)晴
朝方、地震で目覚める。京阪神震源らしい。すぐラジオで知る。学校でテレビを視ていると、淡路・兵庫直下二〇キロ、死者次第に増えて夜には一五〇〇人にもなる。高速五〇〇mにわたって横倒しがすごい。また、火災がすごい。大事件。歌仙を巻く遊び心に気が引ける。
 四月二日(日)晴
観音寺中央高校の応援に行く。午前一時半学校集合、一一号パスは一年七組生徒職員家族の中に入る。五時梅田着、阪神電鉄で甲子園へ、一塁側アルプススタンド応援。東海大相模に六対〇で大勝。初優勝も夢でない。現職校ではないが、旧職員が応援に行くのは当たり前。
 七月十六日(日)晴
バスが児島より出ていた。渋川で降りる。來讃する西行像も撮影できた。日比まで熱い路を歩き、更に児島市文化センターまで。三時半から五時半まで『青春デンデケデケデケ劇団文化座の公演無料招待で観劇。ただいつか観音寺にも呼ばねばならなくなる布石を敷かれる。
 九月十五日(金)晴
観一祭二日目、体育館芸能発表、職員コーラス、邦楽部の琴、コーラス部の合唱、VTR録画。教室展示では戦争体験関係を手伝っていて来客応対。柞田飛行場立退き関係、特攻死高橋輝美姉妹三人来校。夜は十二時過ぎまでダビング編集、五十八歳にもなってこんなことに熱中。
 十月三十日(月)晴
本庄の森川光江さより電話あり、夕方『森川義信詩集』(昭和二十五年一月二十日発行)をもらいに行く。ガリ版摺一六頁だが、文学史的に価値の高い貴重なもの。尼崎在住フミさん、この兄嫁が詩碑も建て、詩集も兄之芳の編集したもの。今は空家の詩人森川義信家の相続人である。
 十一月二十七日(月)晴
三限目、二の九古典小テストで「弗為胡成」の読みを出したところ、誰もできないはずなのに、貞廣さんが正解。上高瀬小学校の校門近くの石碑に刻まれている校訓。「為さずんば、なんぞ成らん」と読み、古代中国伊尹の言。撰文刻字した貞廣観山の親戚であるらしい。
 十二月十六日(土)晴
ワープロ初めて七万円で購入。三時間かけて観一ガイド四〇〇字打ち込む。初日にしては上出来か。今後手書きではなく、これにするのに限ると思う。今最も力を入れている「三中出身戦没者」のまとめもこれがあれば鮮やかに決まる。言葉は文字化して命を帯びる。