剣持日録抄(平成24、25年)

       雅澄日記(平成二十四年)
   一月五日(木)晴
准看初授業。一人退学三三人になる。ナイチンゲール『看護覚え書』全員に順次読ませる。活気を取り戻すためにも来週は演習と決める。帰宅後は文学碑贈呈用書き替え、大平総理墓碑、そして前川知事句碑、菊池寛詞碑、十基以上自筆でどんどん書き進める。元の字体に拘らぬ。
 二月四日(土)晴
一年一回の晴れ舞台、菊池寛記念館文芸講座。今年は「香川の文学碑」資料全部は説明できなかったものの、多くの情報を提供、喜ばれたと思う。川北さんグループ、幸さんグループ、かつての土庄高校同僚など来てくれてうれしかった。資料の残り、奪うように全部持ち帰られた。
 四月七日(土)晴
愛媛県へ佳文の車で花見に。まずは西条加茂川のほとり常丈公園の桜並木。その中に芭蕉山頭火の句碑確認。その後内子の町並み、大江健三郎の母校大瀬中学校。その前に石畳の一本桜、立石の一本桜あずって見つける。まだ少し早い。帰宅後、ブログに「西条芭蕉句碑」として入力。
 七月二十二日(日)晴
待ちに待った一夜庵ガイド。観商(中央)時代の同僚十鳥先生に頼まれていた香大学芸部(十三人)の同窓生への説明。わずか二十分ほどであったが、準備にどれほどの手間がかかったことか。包みをもらって恐縮したが、それだけの土産を持って帰ってもらったかもと思い直す。
 九月十四日(金)晴
フランスより俳人グループ六人を迎え、丸亀蕪村寺で開講式。基調講演三十分を引き受ける。十分の準備をしていたので、満足している。フランス語は大学で中級まで取ったが、半世紀前のこと、しゃべれるわけはない。合谷さんの通訳で通じたはず。西行の仏訳歌集等三冊もらう。
 九月二十三日(日)曇後晴
高松より土庄までフェリーで渡り、小豆島を仏俳人案内。尾崎放哉記念館、中山農村歌舞伎舞台、オリーブ公園、寒霞渓句碑の森など。土庄泊。新任時代ここで過ごして以来ほとんど来ていない、とっておきの島。はからずもこの島に仏人案内。ここでの費用十四万円全部自分が払う。
 十二月十四日(金)曇後雨
上谷耕造(耕ちゃん)お通夜に行く。八幡市八幡南山のシティーホールへ馳せ参ず。母信子さん(小豆島土庄町鹿島)に会い、お悔やみを言う。一人っ子を母の手一つで育てたのに、親より先に行くとは、不孝者と心で叫ぶ。小豆島時代下宿の子だった。現役市議とて弔問客三百人以上。
 
   雅澄日記抄(平成二十五年)
   二月二十日(水)晴
観中総合学習の講師として「句碑めぐり」を指導。早苗塚~木の鳥居~琴弾山頂歌碑・詩碑~観音寺・神恵院~沓音天神~坐石句碑~一夜庵。ここで十四名全員俳句を作らせる。それをその場で短冊に書いて持ち帰らせる。問わず語りに佛昌寺の合田君、僧侶の資格を取っているという。
  三月三日(水)晴
三時~五時琴弾散策。八幡さんの下り石段で東京から来た遍路翁に話しかけられる。それがうれしくて義経奉納木之鳥居を説明してあげる。これは第三の鳥居と記されていることに気づく。由珠より詩作品届き、一気にこれを詩集『海老ダンス』として綴じ、先輩文庫に納入予定。
 五月二十八日(火)晴
みとよ源氏は「蛍」の巻を終える。みとよ万葉の上に『源氏物語』を読み進め三年目になる。長文の古文を辛抱強く読み解く根気がこの老齢の方々によくあるものだと感心する。千絵四十五歳の誕生日。四人の子どもをどう育てようとするのか。喜びも苦しみも人の倍あるはずだが。
 七月二十九日(月)晴
瀬戸内芸術祭で伊吹島へ行く。文化財ボランティアで島の民俗資料館の管理・案内当番である。午前中に二百名以上の来客あり。中庭の半芸術作品の遊具が人気。回転を直線の縄に換えて舟を動かすのがおもしろい。人のあまり訪れない金田一春彦歌碑の前で弁当を食べて帰る。
 八月三十日(土)曇
五十年間乗ったバイク、乗り納め。バイク人生の終焉。自転車免許証が本日で期限切れ。完全に明日から自転車族になる。午後、元NHKのど自慢司会者宮川康夫アナウンサーの講演、大野原で聴く。かつて「男の背中」を組橋君が歌ったことをしみじみと語り、感動を呼ぶ。
 十二月七日(土)晴
菊地寛記念館文芸講座「創作文芸紙碑」初めに中西進先生文化勲章の紹介記事を配布してあったのを講演者のことと紹介される。なんという誤解だろう。五年目の講演口調は乗り乗り。お得意の冗舌・毒舌も。もう二度とここには来ない。高松にはあいそが尽きた。我三豊人として死せん。
 十二月二十日(金)曇
とうとう五郷に水車が取り付けられる。午後四時頃なり。上からの水掛け水車。直径四mの大きさ。この地の住民の共同作業、手作りというのがいい。宿願の水車完成の喜びを共に分かち合い乾杯、十人ほど。石井さん、藤岡さん、藤田さん他である。帰って晩酌、独酌も。明日は明日。