剣持日録抄(平成11年)

     雅澄日記抄(平成十一年)
 一月二十一日(木)晴
去年は今頃「戦世の青春」に没頭していた。特攻隊員遺書の映像化であった。今年は今日この頃「文学碑道しるべ」をまとめている。いずれも地元とのつながり、故郷愛につながる。「我三豊人として死せん」天下国家を動かすことなく、この田舎に眠ることになる。
 一月二十四日(日)曇
山本町辻東の毘沙門天に万葉歌碑の立派なのがあるのを発見。「御民吾生有験在天地之栄時爾相楽念者」と判り易い大きな字で、皇紀二千六百年昭和十五年に建立したもの。この頃父は近くの辻小学校に転勤、この碑が建つのを見たのではないかと、しばし感慨に耽る。文学碑三豊平野に百基余り。
 二月四日(木)曇
青海に白帆浮かびて夏真昼     雅舟
初夏の風木もれ日ゆらし葉をゆらし 佳舟
右の二句いずれも小学生時代の詠である。
これをとうとう句碑として白ペンキで書く。明日は庭に建てる。記念碑としていつまで残るか知らないが、父子句碑ができる。この庭にはかつて一緒に刻んだ芭蕉石碑はあるが、これは板碑。
 五月七日(金)晴
朝、マツバウンランを校庭で採り愛子の机の上に封筒に入れ、手紙と共に置く。それより又今日も豊稔池の風景画描きに行く。午前中一枚は堰堤より上流を見て大きい画用紙に描き、午後は石積堰堤を下から水の流れ落ちるところを大きな画用紙に描く。
 十月三十日(土)晴
昨日作った河田誠一「春」の詩碑を仁尾町家浦展望台の置石前に据え付ける。誰も関心を持ってくれないであろうと思うと寂しい。観一百周年記念誌の記録をあれこれ収集。来年は日の目を見て、二十一世紀の遺産になる大切な仕事。
 十一月十一日(木)曇
平成一一年一一月一一日一一時一一分一一秒。観一でラジオを聞きながら編集を楽しむ。三女の制服の変遷、この着色を目玉にしている。その他いろいろ趣向をこらし、心のこもった精神性のある記念誌にせねばならぬ。我が観一と心中せんか。
 十一月二十九日(月)晴
新しい家を建てるため、小豆島の思い出の巨樹「フェニックス」をチェンソーで倒す。メリッ、切り口を入れていた所から倒れそうな音。「佳文早うカメラ持って出て来い」「ビデオで動き撮らな」十二時前、運命の決定的瞬間を撮る。昭和三十七年より三十七年間、我が家のシンボル、我が人生の象徴がついに倒れる。