父母のこと

        父のこと、母のこと             
  父は四十四歳で戦病死した。昭和二十一年三月十二日、満洲奉天(現在、瀋陽)で引揚げを待っている間に発疹チフスに罹って客死した。遺骨は六月に帰り、八月には小学校で村葬をしてくれた。私は小学校の三年生。祭壇へ焼香に上ったのは、子どもの私一人。母がこの日のために縫ってくれた「ぼくに着せるための白服」…ごわごわの麻布の「父を弔う喪服」…その感触は70年後の今も身に残っている。皆黒服の大人の中で、小さい白服の子ども。そのいたいけな姿が、村民の涙をそそったという。私の知らぬことであった。
 父の身の上は、満蒙開拓青少年義勇軍香川県送出第五次昭明の団長(中隊長)だった。柞田の軍人墓地に祀られている。父のことは記録『鍬の戦士』、小説『父の帰還』ほか、エッセイに書き留めている。
 母は六十三歳で病死した。昭和四十二年九月二十六日、私を一人前に育てると、この世に用事がなくなったように、そそくさと父の元に旅立って逝った。母は十七歳で小学校の代用教員(裁縫先生)として二十年ほど勤めをした。父も教員、姉二人と私も教員、親子五人みな教員だった。
 私は心ならずも何が因果か「教員一家」の牙城を守り、退職後も地域社会で古典講座(万葉集源氏物語)を講じている。本来は西行芭蕉等の漂泊の文学を主軸として、近著に『芭蕉来讃夢』がある。過去には宗鑑一代記の『俳諧の風景』(第十六回香川菊池寛賞)という若書きの小説もある。
 満洲で記した父の遺言状に「万葉学者〈鹿持雅澄〉から名を取った」とある。その名に恥じるほど私は似非学者、似非文人である。