戦後70年

(1)戦後70年は平成27年(2015年)
 終戦の年は昭和20年。戦後70年とは、昭和が続いていたならば、昭和70年(2015年)になる。今年は平成26年(2014年)で、来年早くも戦後70年となる。
 戦後は50年で終わったと言うのが通念で、戦後60年の時は意識する人が少なくなっていた。まして、戦後70年などと騒ぐ者が多くいるとは思われない。
 その前年である今年平成26年から「戦後70年」をあえて意識してもらおうとは思わない。多くの戦争を知らない70歳未満の人の多い現代社会の人々である。
  太平洋戦争の話をしても、我々が小さい時に日清・日露戦争の話をそらぞらしいものとして祖父に聞いたのと同じになっている。我ら祖父の代でも、ちょっと戦争を知っているに過ぎない。戦場体験がないのである。復員した人が周囲に何人かいた時代は過ぎた。一人いるかいないか、希少な戦争経験者。ホームに入っている人を探せば見つかるかもしれないが、勇ましい武勲を披露してもらえる人は皆無に近いであろう。
 本日より、来年8月15日まで、「戦後70年」という茫洋とした題名で小品を書き続けようと思っている。自分の覚え書きであって、人様に読んで関心を振り向けようとは思っていない。
 ただ自分に正直に、戦後70年を戦争犠牲者に愧じない生き方をしたかどうかの反省の心をこめて少しずつ書き留めて、慰霊の一端としたいとひそかに思っている。
  戦後問題について、理屈を言おうとは思わない。誰かと論争しようとも思わない。おそらく左寄りでも右寄りでもあるまいし、中道をゆくのでもあるまい。そんな次元でものを言わないし、そんな評価にも堪えないであろう。政治も宗教も、ましてや経済に関わることはない。あえて言えば、文学的つぶやき、詩にも歌にも句にもなるかもしれない情緒的、はっきり言ってナンセンスな「死者の魂を復活させる言葉」を感得する営みであると確信する。
 
(2)大和魂(和魂)  日本古来の大和魂とはいかなるものだったか。
そこから全ては始まらねばならない。
  大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『乙女』の巻である。『万葉集』に出ているような気がしても、実際には歌中に用例がないと言うべきである。
「足柄の坂に立ち寄った時、死人を見て作った歌」(『万葉集』巻9-1800)の中で、「東の国の恐ろしい神の在す坂に〈和霊の〉衣服も寒々として」と詠まれてくる。ただし〈和霊の〉を〈にきたまの〉と訓むと、前後の文脈が通らない。「和霊」を死人とする説(『古義』)があっても、この際関連が薄い。
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大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対比され、和魂漢才と言われることもあった。『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本化したものとみなされる。大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。
 江戸中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み、大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢心(からごころ)」と対比されるようになり、「もののあはれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」として、宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだことでも知られる。
 近代になり、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的な姿勢を含んだ語として用いられるようになり、「大和魂」という言葉は日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。
 戦後は「大和魂」という語の使用が忌避されるようになり、本来的な意味に着目されることも少なくなった。
  失われた大和魂…それを今どこに求めたらいいのか。もしあるのなら、どこに大和魂が残されているのか。おそらくその答はどこにも見つからないであろう。時代錯誤も甚だしい国粋主義の影のようなものであろう。
 ただ、日本の精神文化のよいところまで削ぎ落とされているならば、西欧物質文明に禍された反省点であろう。もう一度日本人の精神を形成したものはどんな思想・思念であったのか、跡づけしてみる必要があるが、ここではそのような方向に変転しないことにしたい。
 
 (3) 戦争体験の記録
 太平洋戦争を体験した三豊市民の声をまとめた体験談集『太平洋戦争と三豊』(A5判、458ページ)。190人の戦争体験談などを収録。戦時下の兵士の様子や、当時の市民生活を多くの語り部から知ることができる貴重な資料。
 平成25年3月、戦後68年目に突然発刊されたもので、なぜこの時期にという疑問は残るが、十年毎の節目である必要はない。近来稀に見る労作で、これに携わった関係各位に敬意を表したい。隣接する観音寺市が真似事をしても決しておっつかないだろう。
 1人平均2頁ほどで写真入りの戦争体験が集約されている。どの文章も重い体験がリアりティーある表現で綴られており、当時がありありと偲ばれる。これだけのものをよく書いてもらえたものだと感心する。文章を書くのが苦手な人もあったであろうが、聞書きでまとめてあげた場合もあるかもしれない。今はもう高齢化しているし、人に知られたくない、そっとしておきたいこともあろう。それをこのように多くの人に参加してもらえて、この企画は成功している。
 大正生まれの人は終戦時20歳を越えていた。今、80歳以上になっているはず。今になってよくぞこれだけのことを思い出し、書き残してくれた。何人かの文章の末尾を紹介する。
●同じ部隊280名の中で帰還できたのは私を含めわずか3名であった。(大正4年生)
●戦友たちは、ほとんど南の戦線で散っていった。一人生き残った。(大正11年生)
●武器・食糧の補充がないままなぜ戦域を拡大していったのかと思う。(大正7年生)
●特攻出撃で散っていった彼らへの感謝と慰霊を忘れてはならない。(大正12年生)
●今年も気候がよくなったら特攻記念碑に参りたいと思っています。(大正12年生)
●厳しさを乗り越え辛抱する根性を養ってくれたことに感謝している。(昭和2年生)
●今、写経の時間が心休まる至福の時となっている。(大正11年生)
●今も故郷を失っている私達。戦争という愚行の底知れぬ重さを感じる(昭和7年生)
 
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       神風特別攻撃隊 琴平水心隊の寄書き
 
(4)詫間海軍航空隊の記録
 平和な詫間町にも「詫間海軍航空隊」という神風特別攻撃隊の基地がおかれていたのに、その事実を知る人はもう少なくなった。そのなかで302人の若者たちは、祖国を守るために特攻隊員 として、詫間湾を飛び立ち、沖縄決戦へと南の空に散華した。また、その航空隊を築造するために、詫間町民の中からも香田、和田内、 新浜の住民あわせて138戸の「強制立退き」という痛ましい犠牲者がいたことを忘れてはならない。
 平成9年7月、本書編集委員会では、詫間町の太平洋戦争にまつわる出来事を、できるだけ多くの人々の証言を記録に残すという作業を約1年間続けて刊行の運びとなった。A5版370頁にまとめている。
 昭和20年2月16日、全小型機による特攻訓練が実施され、詫間航空隊では水上偵察機による「神風特別攻撃隊琴平水心隊」が編成された。同時期、茨城県鹿島などで編成された魁隊も詫間航空隊に進出、ここで実地訓練を行い、鹿児島県指宿を前進基地として沖縄周辺の艦隊に体当たり攻撃を敢行した。 
  敗色濃くなった昭和20年3月には、神風特別攻撃隊琴平水心隊や魁隊という名の特攻隊が編成された。そして同年4月29日から5月28日まで の1ヵ月間には、そうした小型機の胴体に250キロの爆弾をワイヤーで縛りつけたまま、詫間湾から激戦中の沖縄戦線へ向かって、四次にわたり、36機が出撃して 52人が戦死しているが、それを知る人はあまりに少ない。4月28日から4次にわたる出撃で25機が米軍艦船に突入し、50余名の若者が沖縄の空に散華した。このようなことも半世紀をはるかに超えて、語る者もほとんどなくなってきた。
  今やむなしく風化 しょうとする戦争体験が戦争を知らない世代にも正しく受け継がれ、戦争というものの愚かさと、平和というものの尊さを知ってくれることを祈って企画されたものである。
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(5)鍬の戦士
 満蒙開拓団の送出。それは中国東北地区に日本の第二の故郷を樹立すること。大陸に新天地を築く国家の聖業として営まれていた。それが終戦とともに虚妄の正義であったことを知らしめられた。終戦とともに彼の地を追い払われて再び祖国日本に帰国することになった。武装していた者はシベリアに抑留され、捕虜として酷使された。国策の誤りを身をもって償ったのは、国民だった。棄民政策の犠牲になったのは貧民だった。地主に搾取された小作人はここで打ちのめされた。
 満蒙開拓青少年義勇軍という美名に惑わされて、彼の地に渡った若者、それを率いて征った幹部指導者。終戦を境に価値観は逆転し、皇国思想は地に堕ちた。貧しさを打開する方途、国に殉ずる奉公精神に惑わされて、わが父もその犠牲者になった一人だ。今、その愚かさを憐れむとともに、引き連れて行った拓士を彼の地に死なせた懺悔と供養を父になり代わってこの書『ー満州開拓青年義勇隊 香川県送出野口中隊史ー鍬の戦士』にまとめた。
 目次は次のようになっている。
  一、内原訓練所
  二、渡満
  三、対店訓練所  昭和17年 昭和18年 昭和19年
  四、先遣隊入植  昭和20年
  五、昭明開拓団
  六、敗戦前後
  七、富拉爾基の警備隊員
  八、虜囚
  九、南下
  十、屍の街奉天 昭和21年
  十一、祖国日本へ
  十二、開拓魂のゆくえ 
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   『鍬の戦士 満州開拓青年義勇隊 香川県送出野口中隊史 』野口雅澄著
   A5版163頁 昭和48年8月 東京印美書房刊
 
(6)軍人墓地
 日本の町村単位で軍人墓地があるのは当然である。我が村(今は町)にも軍人墓地がある。約220柱の戦没者が祀られている。4歳の僕を遺して渡満して戦病死した父もその中にある。戦後70年近くになるが、季節毎に供華を忘れないようにしてきた。墓碑正面「義勇隊開拓団団長野口勇之墓」、裏面「俗名勇野口菅治長男昭和廿一年三月十二日奉天大和町琴平町に於いて戦病死行年四十四歳」
  年中行事として、春四月上旬に招魂社前で日枝神社宮司を招き、遺族は一人一人玉串を捧げ招魂祭を行う。夏八月下旬町内五ヶ寺住職を招き、遺族全員全ての墓碑を巡拝し慰霊祭を行う。軍人墓地のない地区はどんなにしているのだろう。名前だけは刻まれているのか知らないが、忠魂碑・慰霊碑の前で拝んでどれだけのありがたみがあるか。戦没地、その年月日・行年等を刻まれていない所には、死者の魂は宿っていない。
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 軍人墓地は地区によって全くなかったり、一般墓地の片隅にコーナーとしてだけあったりする。中には、靖国神社なみに丁重に祀られている三豊市仁尾町の全国有数の模範的軍人墓地もある。もちろん、戦没者全員の『忠魂録』も戦後まもなく発刊されている。発起人で編集者は、復員帰還した三宅久雄氏が散華した戦友の菩提を弔う衷心から発した供養の書である。一人残らず町内全員の戦績等を一人一頁にまとめている。後ほど氏は仁尾町長となって地域のために尽瘁された。
 
(7) 暁部隊
 豊浜町姫浜の富士紡豊浜工場には暁部隊(通称)が駐屯していた。正式名称「陸軍船舶兵特別幹部候補生隊・暁2940部隊於保部隊」である。昭和十八年十二月「特幹」制度が設けられ、船舶兵の下士官を養成するものであった。ところが、陸軍上層部では極秘のうちに○レ艇という小型ボートに二五〇キログラム爆雷二個を搭載して敵艦に体当たりする「海上廷進船隊」(海上特攻)構想が浮上、この特幹一九〇〇名があてられることになる。「船舶隊の歌」の一節は次のようであった。
「暁映ゆる瀬戸の海 昇る朝日の島影に 偲ぶ神武の御東征や 五条の勅諭畏みて われら海の子は 水漬く屍と身を捧ぐ ああ忠烈の船舶隊」
昭和六十年十月幹候在隊者の「豊浜会」が一の宮の名籍を納め、鎮魂を祈念している。昭和五十七年創刊の豊浜会会報「あかつき」は平成十四年第十八号を重ねている。その最新号に「・・・この犠牲になり我が友人たちは多く散華したかと思うと『将帥無能にして万骨枯る』の言葉がぴったりだ。戦友の無念の歯軋りが聞こえてきそうだ。親友三人を○レ特攻で失っている私は靖国神社の参拝で『安らかに眠れ』とは言いかねる」(十一期岡本正)という一節もあった。                  
  昭和19年4月29日より終戦まで約5800名の将兵がここで訓練された。隊員の年齢は22~23歳で、ほとんどが学徒出陣で大学または高等専門学校在学中の学生だった。戦局の頽勢により下士官将校養成の幹部候補生隊とは言いながら、次第に特攻作戦に組み込まれていくことになる。昭和20年1月9日の比島リンガエンにおける第12戦隊の出撃を初め多くの海戦で犠牲者を出した。豊浜の留魂像に名籍(みょうしゃく)されているだけで250名である。
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    豊浜会会報『あかつき』は平成15年刊 第19号で終刊となる。
 
(7)天皇陛下の戦後70年
 天皇陛下が戦後70年の節目にパラオなど南洋激戦地区慰霊を願っているとのこと。自らのご意思とのことで、それはそれで結構なことである。ただ(昭和)天皇
皇太子であったという関係を思う時、心から喜ぶ気にはなれない。
 
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