観一連句 半歌仙
①半歌仙「猫柳」の巻
猫柳つのぐむ風に旅立てり (故)浩一
萌黄に染まる丸き稜線 睦子
春霞淡き船影重なりて 美子
釈迦に向かってみたきことあり 雅舟
女子高生末法の世にも冴ゆる月 浩
天の恵みで又肥えてくる 睦
秋祭り赤き着物ですまし顔 美
高ビー高慢恋すれば負け 浩
こもりくの初瀬女に一目惚れ 雅
雫の音に心鎮める 睦
ひらけゆく忍者の里に友思ふ 美
純情誠実重くあらずや 浩
業終へて家路急げば冬の月 雅
四角のこたつ争ふ五人 睦
また来んと旅の思ひ出数へつつ 美
追ひ追ひに春去りゆかんとす 啓
少なくなりし髪かき上げる 雅
命あらばまた見む風の中の花 浩
② 半歌仙「雛飾る」の巻
雛飾る声にぎやかに兄妹 美子
やさしき顔に光る春風 静夫
かろやかに白いブラウスなびかせて 量子
朝露ふくれ今日の天気は 弘子
枯野ゆくお遍路さんに冴ゆる月 静
栗の実落つる音のかそけさ 美
すすき野は親子兎の隠れ場所 量
嫁ぐ娘に思ひを綴る 弘
アルバムに残せし過去を葬り去る 静
夜のハイウェイ我風となる 量
回廊を渡りて賞づる寒牡丹 美
女人高野は枯るる石楠花 弘
寒月の凍りて流る吉野川 静
底冷え続きインフルエンザ 弘
たまごっち求むる子らに添ひてみん 美
老いたりといへ明治の気概 量
白梅にたそがれ迫る天満宮 静
学び舎に吹く風もやわらか 啓
③「大和路」の巻
大和路や風に溶け込み花を待つ 義敬
かすみわたるは伊賀の山々 留美子
水温み里の時間も薄らいで 聡子
旅のビデオに笑みのこぼるる 初美
振り向けば望月隈なく出でてをり 義
露のベランダタオル干しつつ 留
そぞろ寒寝冷えの子どもの咳一つ 初
ゆれる思ひを胸に抱きつ 義
雨の夜留守番電話に受話器置く 留
紫陽花の影映す水溜 初
青空やコートもいらず忘れ傘 聡
硝子戸突き刺す朝陽なりけり 義
木枯しの夕べの空に鉤の月 初
湯気の食卓思ひ急げり 留
木漏れ日の中や石段駈け下るる 義
学生時代別れを告げて 初
制服の子ら祝ひをりさくらばな 留
ああ翌年の事初めなり 義
そこは俳諧の里であった。俳祖宗鑑の終焉の地として一夜庵があった。ただそれだけで隣県の俳都松山には及ばなかった。子規・虚子・碧梧桐を初めとして多くの近代俳人を生んでいた。平成になってからは俳句甲子園が全国的になっていて、俳祖宗鑑の観音寺などものの数ではなかった。その中にあって、この地の進学校国語科では歌仙が芽を出し始めた。文学史では片隅に置かれている俳諧連歌史とはいえ、足元にその創始者宗鑑が存在することに無頓着ではいられなかった。
進学指導に直結してはいないにしても、郷土の文学を常識的に知っておくことまで否定はできない。反対者はないものの、熱意の入れ方に温度差はあった。十人十色それぞれの特色を生かして連句作者になり、十年近くの間、職務の合間に「歌仙」を巻いた。職員旅行は教科ごとに県外へ一泊旅行である。京都・奈良は言うまでもなく、東は伊豆、西は柳川まで足を伸ばした。往復の道中、宿においても、誰の手もとには「歌仙」下書き用紙は回っていた。いやしくも国語教師という肩書を持っている以上、変なものは作れない。
ところが、各人に創作の才が与えられているとは言えない。国語の基礎力のレベルが一定の基準に達していて、採用試験に受かった者ではあっても、俳諧連歌という特殊の分野の、しかもその創作力があって国語教師になっている者は一人もいない。連歌・連句には一定の方式があることぐらいは知っていても、前句からいかに付句を連想して転じていくかは難しい。想像力の貧弱さ、平凡単調さなど他者に鑑賞してもらえるものはなかなかできない。苦しみながらも、とにかく楽しんで自分の一句ができると、しばらく解放感を味わえる。次の人がイメージを膨らませてくれ易いのを作れていると、ホッとする。あまり長い間手もとに温めていると、自分の句が悪かったのかと反省したりするが、それは諦めるしかない。
毎年転勤があって、その当時の在籍者はほとんどいなくなったが、二十年を経て今なお和気藹藹歌仙を巻く旅の伝統は消えずに残っている。それは、俳祖宗鑑の終焉の地であることからでもあり、俳聖芭蕉の訪れてはいないが句碑五基を温存している俳熱による。温度は三十八度五分ほどでそう高くない。
活字になり、製本されれば後世に残る確率が高くなる。昔のように墨で和紙に書かれたものは長く残らない。特に言い捨てであった、その場限りの俳諧連歌は残り難い。宗鑑時代の俳諧連歌がそのまま遺っているのは、奇跡に近い。宗鑑は名筆家であったし、その遺墨を保存していると火災に遭わないという伝説がずいぶん初期からあったので、運よく残っているものが見受けられる。
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進学指導に直結してはいないにしても、郷土の文学を常識的に知っておくことまで否定はできない。反対者はないものの、熱意の入れ方に温度差はあった。十人十色それぞれの特色を生かして連句作者になり、十年近くの間、職務の合間に「歌仙」を巻いた。職員旅行は教科ごとに県外へ一泊旅行である。京都・奈良は言うまでもなく、東は伊豆、西は柳川まで足を伸ばした。往復の道中、宿においても、誰の手もとには「歌仙」下書き用紙は回っていた。いやしくも国語教師という肩書を持っている以上、変なものは作れない。
ところが、各人に創作の才が与えられているとは言えない。国語の基礎力のレベルが一定の基準に達していて、採用試験に受かった者ではあっても、俳諧連歌という特殊の分野の、しかもその創作力があって国語教師になっている者は一人もいない。連歌・連句には一定の方式があることぐらいは知っていても、前句からいかに付句を連想して転じていくかは難しい。想像力の貧弱さ、平凡単調さなど他者に鑑賞してもらえるものはなかなかできない。苦しみながらも、とにかく楽しんで自分の一句ができると、しばらく解放感を味わえる。次の人がイメージを膨らませてくれ易いのを作れていると、ホッとする。あまり長い間手もとに温めていると、自分の句が悪かったのかと反省したりするが、それは諦めるしかない。
毎年転勤があって、その当時の在籍者はほとんどいなくなったが、二十年を経て今なお和気藹藹歌仙を巻く旅の伝統は消えずに残っている。それは、俳祖宗鑑の終焉の地であることからでもあり、俳聖芭蕉の訪れてはいないが句碑五基を温存している俳熱による。温度は三十八度五分ほどでそう高くない。
活字になり、製本されれば後世に残る確率が高くなる。昔のように墨で和紙に書かれたものは長く残らない。特に言い捨てであった、その場限りの俳諧連歌は残り難い。宗鑑時代の俳諧連歌がそのまま遺っているのは、奇跡に近い。宗鑑は名筆家であったし、その遺墨を保存していると火災に遭わないという伝説がずいぶん初期からあったので、運よく残っているものが見受けられる。
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