日本最古の俳跡「一夜庵」

イメージ 1
  
イメージ 2
イメージ 3
 芭蕉の生きていた元禄時代前後に一夜庵を詠んだ有名無名俳人の発句。
     花にあかてたとへはいつ迄も一夜庵  梅翁(西山宗因)
     まゝよ世は夏の一夜のかりの庵     北村季吟
     いなれぬや雪を下客に一夜庵     上島鬼貫
     松涼し鶴のこゝろにも一夜庵       各務支考
     下の客とよしいへ月に一夜庵      一三
     一夜の月一宿覚の影法師        任口
     涼しさや痩たはしらに草の庵       舎羅
     おほろ夜に探りあてたる庵かな    天垂
     饅頭のあまみや花の一夜庵      才木
     此一夜寝て見む庵の九月盡      松吹
 一夜庵と名づけたのは、誰だったのか、その命名者は分からない。当主宗鑑だったと言うより、誰言うとなく、そのように呼ばれるようになったと言っておこう。
 一夜の宿を求めるのも厭うような人だったのか、実はそうではなかったのか、定かではない。かつて付き合っていた女人が一夜の宿を求めてきたならば、どうだろう。上々の上の客として歓待したであろう。宗鑑が『犬筑波集』で唯一固有名詞を使っている詞書「わかなといふ下女叱られければ」
とある。下女ふぜいの女まで名を書きとどめたのはなにゆえであろうか。
 小説『俳諧の風景』では一夜庵を訪ねてくる女性が最後の方に出てくる。近江から来た女で、宗鑑と関係のあったかもしれない謎の女「わかな」とその娘である。
 一夜庵の横にあるのは、宗鑑法師の供養塔でお墓ではない。お墓は興昌寺山の頂にある。五輪の墓碑が三基ある。真中のが少し大きくて宗鑑の碑という。両側の碑は誰のものか全く分からない。もしかすると「わかな」とその娘のものであるかもしれない。宗鑑の過去帳はない。ここ一夜庵が終焉の地であるという確証はなく、伝承の域を出ないと厳しい俳文学界の見方である。地元は断定しているが、疑いようのない証拠物件や文献が遺されていない。
 存在するのは宗鑑編『新撰犬菟玖波集』で恋部の前句付に見るべきいくつかがある。
    手枕にてや聞きわたるらん
   嫁入りの小夜ふけがたのほとゝぎす
 前句の手枕は自分の腕を枕にしている。それを付句では新婚の男女が同衾している様として、初夜の床に夜更けて時鳥の声が聞こえてくることにして付けている。独り寝のイメージから共寝の艶の場に転じた恋句。
    藪をくゞりて夜ばひをぞする
   鳥の名のしとゞしめてや契るらん
 前句の男が夜這いする場面を、付句では鵐(しとど)と言う鳥のようにしとど(しっかりと)抱きしめて契るだろうと転じている。
 前句付の面白さは、はぐらかしたり、深めたり、展開するところにある。宗鑑から芭蕉へ、発句の独立、俳諧の深化が進められる一方、脈々と共詠としての連歌連句が伝えられている。
 最も人間臭いものとしての恋句は、近代俳句革新「花鳥風月」の自然詠主体となって、影を潜ませてくる。