小品「芭蕉讃岐行」Ⅸ

  (一)芭蕉四国行を止めた曲水
 芭蕉を四国に誘う引力はなかったか、それほど魅力は感じなかったか。否定的見方が本当ならば、讃岐人として遺憾なことである。四国行を止めた人は、江戸人曲水というならば、恨みもなくはない。まずは、備前・備中の俳人が陸路来やすい岡山、四国への玄関口まで招いてくれたらよかったのだ。中国も四国も近畿に比べて文芸俳諧熱の稀薄な田舎と見下されるのは、残念なことではある。
   とまれ、芭蕉自身、伊賀上野より十年間住んだ江戸を、かえって故郷とさえ感じていた。
   秋十とせ却て江戸を指す古郷   はせを
  
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  (二)珍しい芭蕉狂歌 
 曲水宛書簡(元禄三年六月三十日付)で、貴翰は幻住庵で落手、懐かしく読んだ礼状。門人去来・如水・越人などが訪ねてきていることを知らせている。この庵に在るのも名残惜しいが、七月までの予定という。「此度の出京滞在、暑気につかれ候、而俳諧一句も不仕」と記した後、珍しく次の狂歌が添えられている。
   おもふことふたつのけたる其あとは花の都も田舎なりけり
 これは曲水・其角の両吟歌仙中の付合を一首にした即興機知の作。芭蕉にもこんなおどけがあったということ。 
 
  (三)女流俳人智月
 郷里伊賀上野で仲秋の名月を迎えようとした前日(元禄七年八月十四日付)、大津の智月尼から時候見舞の進物が届けられた礼状である。
 南蛮酒(国産?)一樽。麩二十。くわし(餅菓子)一棹。三種の進物が翌十五夜の月見の献立に加えられている。
 智月尼(~1708)江戸前期の俳人。山城の人。大津の川井佐左衛門の妻。夫に死別後、尼になる。息子の乙州とともに蕉門に学んだ。
    有ると無きと 二本さしけり けしの花   智月
    麦わらの焼音高き寝覚哉        〃
     是も又ちから仕事や柿団扇            〃
 
  (四)歌仙「霜の松露」の巻(表六句)   芭蕉・支考が中心となって巻かれる。
      猿蓑にもれたる霜の松露哉   沾圃
       日は寒けれど静かなる岡    芭蕉
       水かるゝ池の中より道ありて    支考
       篠竹まじる柴をいたゞく      惟然
      鶏があがるとやがて暮の月    蕉
       通りのなさに見世たつる秋      考 
 
     (五)芭蕉の見た瀬戸内海   
  奥の細道では松島の月を見るのが芭蕉の目指すところであったが、曽良の句を紹介するにとどまってしまった。 やっと日本海の荒波を見て佐渡ヶ島と天の河を天地に配置した名句が生まれた。波穏やかな瀬戸内海を渡って四国に来たとすれば、芭蕉はどんな心優しい句を詠んだであろうか。
      
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芭蕉 海の句       
海くれて鴨のこゑほのかに白し  はせを
暑き日を海にいれたり最上川   〃  
汐越や鶴はぎぬれて海涼し    〃  
荒海や佐渡に横たふ天の河    〃  
  
(六)芭蕉より師季吟の方が一夜庵に肩入れ                    
「一夜庵再興賛」は北村季吟の書いた募金の勧進帳。                
 宗鑑の旧居一夜庵は百年余り経って「庵の軒端も古風を忍ぶの草のみ所を得て、庭も垣根も秋の野良猫の臥所なるべかりしに、今の庵主宗実、西山宗因に愁へて」勧進をお願いして復元しようとしているので、よろしく頼むという勧進寄付の趣意書である。 巻末に「宗の名やおなし雲ゐの郭公」の句を記している。         
 貞享元年甲子卯月十三日の日付                          
 さて、芭蕉はここに来ていれば、師季吟がすでに一夜庵に力添えをされたことに感銘を深くしたに違いない。季吟は、芭蕉の師として知られる。近江の人。貞門に入り、貞徳没後は歌学を修め、幕府の歌学力を勧めた学者である。                                                             
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   (七) 注目すべき露泉編『網代笠』 元禄11年刊                    露泉は地元の豊中笠岡の僧。芭蕉没後4年、京阪方面に旅して多く俳人と交わり、多くの句を集めている。「早苗つかむ」の句が智月の句*の前に載せられ、特別詳しい詞書があり、この時芭蕉自筆短冊をもらったかもしれない。(後に小西帯河が譲り受けたか) 「夏の月おくそこあらし四面の海 智月」の詞書には「四国の人々我栖をとはれ、別るゝとて」とあるので、懇意にしていたと推測できる。          
  *ずぶぬれやさ月男の頬かふり    智月                       風采をかまわぬ讃岐男にあきれているが、このにくめない田舎俳人に親密感を覚えている。                                             
 この句集『網代笠』序文には浪花の蕉門椎本才麿が序文を寄せている。「有心の虚、無心の霊、はいかい此中にあらん。たれか此境にあそふ。僧露泉は讃岐国三野郡の産にして、秘蔵秘崙の一嚢を得て、云々」                           
 
   (八)山路来てなにやらゆかしすみれ草    はせを                  「大津に出る道、山路をこえて」 の詞書がある、三吟歌仙の発句。 
脇句は叩端の「編笠しきて蛙聴き居る」                    
    菫の花の姿態にふと懐かしさを感じての作。                       芭蕉がもしも春の讃岐野を歩めば 讃岐菫が旅心を慰めたであろう。                  
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園芸品種三色すみれ、バンジーでは、ひなびて野趣に満ちた菫の趣は出せまいが                                       
   (九)酒のめばいとゞ寐られぬ夜の雪   はせを                    寝つけないとき、寝酒を飲む。すっと寝られることもあるが、かえって目が冴えて寝られぬ夜もある。これは共感できる人が多かろう。俗情で終わらなかったのが「夜の雪」である。ひっそりと深夜の雪が風雅の世界へ連れていってくれる。これで快くやっと夢の世界にいざなってくれる。「夜の雨」では寝られない。「夜の雪」でやっと寝つける。 讃岐の酒は川鶴、甘口女酒。                                                
(十)能楽「早苗塚会」                                                                                        
香川県観音寺市琴弾八幡神社境内一の鳥居横に                 
     早苗とる手もとやむかし志のぶ摺  はせを                    芭蕉の自詠真蹟を刻んだ句碑のある塚を早苗塚として祀っている。       
安永4年(1775)の古記録には次のように書かれている。            
「施無畏の山の叢林に土を荷ひ石をはこびて一基の塚なりぬ」(小西帯河「早苗塚」序文)                                               
この石は半ば土に埋もれた福島の「しのぶもじずり石」を意味している。     
この「一基の塚」が、はたして句碑の建つ一郭を指すのか、裏山の小丘を指すのか、一概に前者であると言えない。句碑の借景のようにある花崗土も当時相当の苦労をして、琴弾の山土を盛ったかもしれない。                        この周辺は、二六庵竹阿(一茶の師匠)が治定した所で、俳聖芭蕉「翁塚」の場所としてはこれ以上ない絶好の場所である。                          ここで毎年五月十二日を「早苗会」と号して連中香花を捧げ頓首百拝したらしい。     歌仙行                                    
 爰にしも昔をしのふ翁塚       二六庵                     
  茂みに匂ふ七宝山の陰      帯 河                     
   白鷺の一羽さそへば白妙に     梅 五                              
         雨ふろふろと降出すなり           冠 季                                                                                                                                        
ここを舞台にして謡曲「複式夢幻能 宗鑑・芭蕉の霊的感応」が興行される予定。