小品「芭蕉讃岐行」Ⅷ

 
   (一)吟詠の自然
 物に執着していると、往生際が悪くなる。もっと自らのこだわりを捨てて、いつどうなってもいいという悟り。覚悟などという厳めしいものではない、消え入りそうな地平。そう、そのとおり、宇宙と一体になる虚心。誰それ、あの事という妄念を捨てること。
 そこから不思議に兆す光、そこには人それぞれその人に与えられる神与の贈りものがある。
 
   (二)不易の句
  月に柄をさしたらばよき団扇かな   宗鑑
  是は是はとばかり花のよしの山    貞室
  初風や伊勢の墓原猶すごし       芭蕉 
去来抄』で去来がこの三句を挙げて、物数寄なき(特別の趣向を凝らしていない)句としている。「賦・比・興は吟詠の自然」とも言っている。感じたままを述べ表す(賦)、ものにたとえてその意を述べる(比)、ある事物を比喩を借りて思いを述べる(興)。
詩の六義の三つである。
 宗鑑と芭蕉の句が違和感なく、同類項に並んでいることに注目したい。 
 
   (三)虚空に踏み出すヒヤリ
「古池や蛙飛こむ水の音」…この天下に知られた芭蕉の名句。この句の解釈にしてもおざなりにはしない。蛙を詠む場合、これまで聴覚的にとらえてきた「鳴く蛙」に対して、視覚的に、身体をそなえた蛙が「飛ぶ」ところをとらえたのは、芭蕉のこの一句が初めてではない。
 山崎宗鑑の「手をついて歌申しあぐる蛙かな」の句がある。その限りでは、芭蕉の独創・発見というのではなかったとみる。 
 古典講読の基本として大切なのは、細部に眼の行き届いた読み取りが大切であると説く。資料たるテキストや参考文献を子細に読み返す。
 芭蕉の生涯、蕉風俳諧の新しさ、不易流行の説などについて、簡潔にして要を得た概説に続き、「塚も動け我泣声は秋の風」(「奥の細道」中の絶唱)の「も」がぬきさしならない働きのあることを論じている。表現の現場を踏まえなければ、百年かかっても肝心なところに触れることができないという。「表現の虚空に踏み出すヒヤリがなければ、これを読む者にヒヤリを感得させることができない」と本書を結んでいる。                               (上野洋三『芭蕉の表現』)
 
   (四)芭蕉の桧笠
 芭蕉の愛用したのは桧(ヒノキ)笠だった。その名のとおり桧の笠、ヒノキの皮で編んだ笠。晴雨いずれにも用いる。笠は、昔の旅人の雨具として欠かせない必需品。
奥の細道」の旅に出る前にも、旅支度として自ら「もゝ引の破をつゞり笠の紐付かえて」いる。「笈の小文」には貞享五年春の詠として次の一句がある。
   よし野にて桜見せふぞ檜の木笠   はせを
「これからいよいよ旅に出るから、檜木笠よ、お前にも吉野の桜を見せてやるぞ」と軽く興じている。
「宗鑑は反笠を愛し、芭蕉は檜笠を愛したまふ」「合わせて二つ笠」と言ったの二六庵竹阿(一茶の師匠)だった。やわらかく円熟した焦風俳諧の象徴でもある。
 元禄五年八月十五日、蕉門を招いて門弟園女は
   名月や後は誰着ん檜笠    園女
 と詠み、芭蕉の象徴のように「檜笠」をみなしていたことが分かる。
 元禄七年十月十二日、五十一歳俳聖芭蕉永眠。十八日法会、芭蕉翁追悼百吟に
     寒さうな笠さへ見ればなみだ哉   園女
 と「笠」が先師芭蕉の遺品として思い出深く詠まれている。
 
      (五)ザボンの頭
     吹く風に吾も番橙(ザボン)の頭かな    除風
 元禄四年、備中の俳人除風が讃岐行脚の途次、仁尾で詠んだ句である。
 芭蕉が備中から誘いを受けていた人は、除風この人である。芭蕉とともに来ていたと考えて何の不思議もない。そして、このような飄逸な句が芭蕉に生れていたかどうか。もっとサビの効いた句になっていただろうか。
 鸞翁亭に泊まり、その庭前に大柑子があって、それがざぼんだと知らされる。高麗人から得て、長崎の浦で一度は見ていたので、それと同じだと分かる。芭蕉ザボンを知らなかった。ここで初めてこの珍しい見ていたら、どんな感慨を覚えたであろうか、すべては幻想に過ぎない。
 
   (六)芭蕉が見たもの、見なかったもの
 晩年元禄時代芭蕉が来讃して観音寺へ来たならば、必ず見たであろうものは、一夜庵は言うまでもなく、由緒ある琴弾八幡宮。そして、見るはずのないものは、没後百年に建てられた早苗塚「早苗とる手もとや昔しのぶ摺 はせを」の句碑。
    元禄二年(1689)奥の細道の旅で詠まれた短冊の帯河の入手したのは明和元年(1764)、その句碑建立は安永四年(1775)。没後100年が経過して半永久的に碑として定着しても、常に親しく読み継がれるものではない。
 今なお一の鳥居の傍らに芭蕉を偲ぶ句碑があっても、いつも気にかけている人は少ない。
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   (七)松尾家の墓
 芭蕉につながる松尾家の墓でもないのに、松尾という名に惹かれてその前にたたずむことがある。小学時代の旧友俊君は松尾という姓を誇りにしていたようだ。
  系図には芭蕉は決してつながらぬ それでも松尾の姓誇りし友 
   
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  (八)ますほの小貝
  『奥の細道』結びの直前の章「色の浜」(福井県敦賀市) 
 十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。
 浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
    寂しさや須磨にかちたる浜の秋
    波の間や小貝にまじる萩の塵
 この句の「小貝」は「ますほの小貝」と言われ、西行が『山家集』に詠っている。
    汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とは言ふにやあるらん
   この色の浜には、今はもう昔のように色鮮やかな小貝が少なくなっている。
  近くの土産売り場のおばさんから先年いただいた小貝↓
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      (九)日本の杜甫
 「日東(日本)の杜子美(杜甫)なり、今の西行なり」と言ったのは元禄の俳諧師青木鷺水である。鷺水は芭蕉の門人ではないが、蕉門十哲の一人支考は蕉風唱導を掲げて全国津々浦々を行脚した。四国讃岐伊予へも足を延ばしている。俳聖芭蕉として神として崇められるようになる。明治の初め頃、明倫講社は「神道芭蕉派古池教会」を結成した。寛政五年の百回忌にすでに「桃青霊神」になっていた。
 
     (十)晩年の仮住まい幻住庵
 「老杜は痩せたり」と、杜甫に敬意を表しての「老」とはいえ、晩年の芭蕉は自らの病身痩躯に「老いた杜甫」を重ねていたかもしれない。『幻住庵記』では、老後の心細さはあっても、ここに住みついて永住の庵とはしない。漂泊の末、しばしの安らぎを得たに過ぎない幻住庵。「賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻のすみかならずや」
  曲水は、菅沼曲翠。義仲寺で暮らしていた芭蕉の新しい住まいとして、伯父幻住老人の旧庵に手を加えて、提供したものである。