小品「芭蕉讃岐行」Ⅶ

 
  (一)全国3239基の芭蕉塚(翁塚)
 全国に天神さんが数多あるように、芭蕉崇拝者・芭蕉ファンの建てた芭蕉塚(翁塚)が綺羅星の如く全国各地に分布している。そのうち墓碑が19基、神号碑が24基もある。「芭蕉霊神」「桃青霊神」である。神棚に祭られる神霊と違って、芭蕉は庶民に親しまれる俳句が命である。句碑が並立しているのが普通である。天神さんが単に神様として祀られている偶像とは違って、芭蕉霊神・翁塚は言霊のこもった文学神である。
イメージ 3
イメージ 1
俳聖芭蕉を偲んで五月早苗取る頃俳句結社「早苗社」の法要が行われた。
 
   (二)南無天満大自在天
 菅原道真が神格化され、「天神」とされた。この名号(神号)を書いた軸物が遺墨として全国に伝えられている。
  普通「南無~」は仏教宗派によって異なる。ここでは神道天神である。
 ここに芭蕉・宗鑑・良寛・武蔵・雪舟の自筆遺墨(直筆)を並べてみると、それぞれの個性が現れているのが分かる。    
         ①誠実・真面目な芭蕉の書体、あまり面白くはない。
    ②遊び心・流麗な宗鑑の書体、古今に人気がある。
    ③素朴・簡素平明な良寛の書体、童心に返ることができる。
    ④二刀流・才気煥発の武蔵の書体、裏書きもできる。
    ⑤芸術・美の使徒たる雪舟の書体、心安らかに受容できる。
              
イメージ 2
 
 
       (三)神号掲げて雨乞百韻興業
 この里に坂本天神と称する天神さんがあった。菅公さんが実際ここに来ていたと言われる。観音寺の日儀法印とは学友だったので、道真讃岐守だったとき、度々出向いて来てくれていた。それで幾星霜経てもここの天神さんは坂本天満宮とも言われ、近郷近在で特別視されていた。
 時あたかも旱魃の正徳年間の夏の旱で雨乞い行事の行われる時季で、ここでは連句百韻興行が催された。夜明け方から関係者は集合して、宗鑑・芭蕉の霊神を祀り勧請して、、この俳祖・俳聖にあやかろうとする祈りが捧げられた。注連縄、供え物もお飾りして、祝詞が唱えられた。主客は師匠百花である。
   神風の雨こそ匂へ夏の草   百花
 備中から一夜庵主になっている除風の発句だった。これに脇、第三と続けて表八句、辰の上刻(午前八時)には一順を吟じ、幣帛を奉る。その日は特に朝から照っていたが、稲積の峯に雲一群湧いて、雨そぼ降る。人々奇異の思いをなし、渇仰するに、ようやく帷子雨というほど降る。又、空返りて皆々力を失う。百花(除風)一人、「我は是宗鑑・芭蕉の御手しろ(身代り)なり。神光明らかに感応、民に喜ばしめたまへ」と祝詞する。この百韻は一日がかりで申の刻(午後四時頃)ようやく匂いの花にたどりつく。すべて巻き終える頃、雨は八重空を覆い、山も崩れるばかり大雨が降ってきた。
 
イメージ 5
      (四)一夜庵に女現る
  一夜庵には芭蕉が一番来てほしかった。なのに、今日一夜庵を開けておくと、どこからか一人のうら若い女が現れて、寒さにふるえながらも、茶室の情緒をしみじみ味わっているようだった。
 そして、すぐどこへともなく消え去ってしまった。
めったなことで開けない一夜庵、再びこの女が現れることはないであろう。
   一期一会 女芭蕉よ現れよ 亡霊といふ姿なりとも
イメージ 4
  
 
 (五)一夜庵宗鑑居士追善両吟「橋姫御」の巻     
イメージ 8

 貸し夜着の袖をや霜に橋姫御  居士    
   一夜庵より休め田拝む     不遜  
 犬筑波傍に川鶴美酒ありて     不  
    破れ障子に千里眼あり      宣長  
 月に柄をさしたる団扇メール便    宣 
  下の下の客はまず草泊り       不  
    ウ  
 さもあれば都のうつけ紅葉踏む    不  
   陣営深く睦言交わす            宣 
 ういういし若菜食べたくなる女      宣 
  きらめくばかり宗鑑恋句            不 
 汝のため吾は雲公してくるよ          不 
   仏も原をくだすとぞ聞く                 宣 
 讃岐路のほととぎす啼くホットキー    宣       
  狂雲の上夏月煌々              不 
 破戒僧一休禅師の流れ汲む      不 
  花の香盗み嵐ふきの塔             宣
 春の海沓音天神奏でたり           宣 
  流浪の僧よ瀬戸内讃歌             不 
  ナオ
 佐保姫の春来たりなば幸あらん        不 
   馬のばりする尿前の関          宣 
 遍路みちちょと入り込んでたわたわと 宣 
   四国霊場消防訓練               不 
 さざなみの荒れし都が目裏に         不 
   西への旅の草鞋整ふ          宣 
 媼とは言えどしたたかしな見せて    宣 
   大般若の孕み女冬眠          不 
 寒くとも寄り添えば良し夫婦仏      不 
   なあたりそとわらべわらわら      宣 
 三日月は弓かそれとも釣り針か    宣 
   ひやひや室町浦島太郎        不 
ナウ
 竹の春竹馬狂吟葉ずれ音          不  
   鷺の目をしたつくつく法師        宣 
 能筆という一芸を携えて           宣  
   笈の小文芭蕉翁有り         不  
 妙喜庵・備中・山崎・花遺跡         不   
   御姿に降る春の木漏れ日       宣 
 
   (六)此道や行人なしに秋の暮 
 「人声や此道かへる秋のくれ」と二案を併記して、どちらにするか問われて、支考は初めの句がいいと答えた記録がある。「清水の茶店遊吟して、連衆十二人と半歌仙を巻いた時の立句である。
 此の道とは、秋の夕暮の現実の道であるだけではなく、芭蕉の進む俳諧道を意味しているかもしれない。ただ、その場合、大勢門弟たちが集っている場で、師匠の自分の孤高を強調してとは言えまい。この俳諧興行に際して「所思」と前書きしていることでも分かることは、平板な単一写生句ではなくて、思念が籠っている。それは定かに捉えることはできないが、「人間存在の根源的な孤独感」「孤独な心の寂寥感が発した人生詠嘆」と大きく深い思いとして解する識者もいる。古来、芭蕉の内面を詠み込んだ句として引き合いに出される名句である。
 
  (七)芭蕉には水仙がよく似合う
イメージ 6
   
    其にほひ桃より白し水仙花    芭蕉
 水仙の花の白さは、桃よりもずっと白美しい。桃青(芭蕉)が三河の国新城の少年に兄は桃先、弟は桃後の号を与えた。風雅を好む聡明な兄弟を祝福してのことである。 
「にほひ」は今嗅覚であるが、古くは視覚で色合いのことであったので、この句では水仙の匂いもさることながら、清楚な白さを意味しているとみたい。
 芭蕉は自分の桃の白さを超えて水仙の白さをこの二少年に期待している。それはすなわち、芭蕉自身が水仙の高雅な白に憧れ、理想を感じていたとも言える。 
  芭蕉には水仙の高潔な白がよく似合う。
 
 (八)挨拶句                                         
 俳諧師芭蕉は、行く先々で歌仙を巻いた。奥の細道においても土地の俳人たちと連句を楽しんだ。紀行文は俳文としての建前上、省かれている「曽良俳諧書留」須 賀川の相楽伊左衛門亭での歌仙冒頭三ッ物。                                 
      風流の初やおくの田植歌           翁                    覆盆子(いちご)を折て我まうけ草     等躬            
     水せきて昼寝の石やなをすらん      曽良               
 
(九)除風の墓                                           
 備中の俳人、一夜庵四世の除風(延享三年没)の墓が一夜庵の裏山にある。   その存在を知らない人が多く、供華参拝されることはめったにない。当庵初代山崎宗鑑のことさえ知らない、無関心の人が多くなってくると、刻字は明確ながら、それは全く見捨てられた石ころに等しい。                              世の人よ、心あらば伝えてよ、俳祖宗鑑終焉の一夜庵を再興した除風なる献身の人がいたことを。                                         
        
イメージ 7
 
     (十)菅原神社(坂本天神)                                    全国に菅原神社も数多いが、坂本菅原神社は、菅原道真が立ち寄った坂本という可能性は高い。各務支考がここ坂本で「南無天満大自在天神」の名号を掲げ百韻句会を催したことは確かなことである。今は、ひっそりとしたたたずまいの天神さんの一つにすぎない。                                   
 
イメージ 9