小品「芭蕉讃岐行」Ⅵ

 
   (一)蛤
   蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ   はせを
 奥の細道の掉尾を飾る句。その直前に「伊勢の遷宮拝まんと、又舟に乗りて」とある。20年に一度の伊勢遷宮に繰り合せている。平成25年も伊勢遷宮にめぐり合わせていた。『ふたみ」は「二見浦」と「蓋(ふた)と身(み)」を掛けている。掛詞という古い技法を用いて、新鮮な感銘はないが、即興吟として句の調べの軽やかさがある。
   蛤のいけるかひあれ年の暮    かせを
 この句も蛤という貝が詠まれ、「かひ」に「貝」と「甲斐」が掛けられている。『源氏物語』「須磨」の巻の「いけるかひありと思へり」が意識されている。 
 瀬戸内海沿岸の砂浜には、蛤など貝が採れて、芭蕉が来ていればこれを食べて一句がうまれたであろうと予想される。   
  仏門の西行法師は、讃岐行のとき、貝を獲る子を見て殺生の罪を歌にしたが、芭蕉は決して俳諧にそんなことを詠むはずはない。
   蛤を肴に瀬戸の酒の味   はせを(偽作)
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      (二)月
 讃岐で見た月は蛤に似ていた。残月は瀬戸の海上に冴えて、月の兎が春寒に凍えているように見えた。未明でまだ人の動きはなく、木の枝で小鳥たちも嘴を羽根の間に押し入れたままだった。
 それでも、南国四国はこれまで過ごした本州のどの地方よりも凌ぎやすかった。
  ここ燧灘だが、かつて「燧が城」で詠んだ一句が思い出される。
    義仲の寝覚の山か月かなし    はせを
 木曽義仲が籠り平家に攻められた古戦場が燧が城である。
 近江の義仲寺に我が形骸は葬られたことになっているが、その魂魄は駆けめぐり西国讃岐伊予燧灘の中空をさまよっている。
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 馬に寐て残夢月遠し茶のけぶり                                                        
西行が歌に詠んだ小夜の中山辺りで詠んだ『甲子吟行』の句が想起される。    
 杜牧が漢詩に詠んでいる残夢残月に影響を受けているが、俳諧の面白さ、俳味がこもっている。 長距離で疲れたり、体調のすぐれない時は馬に乗るが、普通はただ徒歩の旅である。老いると思うように進めないが、それでも芭蕉が健脚であったことに間違いはない。                                        
 
 
(三)残菊                                         
  乱世の背反西行宗鑑師   雅舟                             
我が祖父は日清日露戦争に従軍し戦傷兵として帰ってきた。また、我が父は大東亜戦争義勇軍を率いて中国大陸に渡り遺骨として帰ってきた。             
西行は源平の合戦にあいそを尽かして出家入道、歌道に専心して歌人として功績を残した。宗鑑は応仁の乱を厭って仏門に入り、俳諧の道に遊び俳人の先駆者となった。歌道・俳道の違いはあれ、芭蕉にとっては共に心から崇敬する先師である。
二人に共通するものは何か、そのシンボルを一つとなれば、それは「残菊」ということになるか。今のところ、そういうことにしておこう。                     
    
       (四)旧家の没落
 全国どこにでもある風景で、何も珍しくはない。ただ墳墓のみ残るその光景は、何を語っているのだろうか。広大な屋敷はもう見る影もなく、切り売りされて住宅地になり、そこに誰が住んでいたなどなどは考える人はいない。少し離れて墓地はわずかに人の名と死没年月日と享年を伝える。それも年数が経つと、字の読めない石塔になる。
 その地を開墾開発した業績のある一族の墓も供花さえ捧げられない荒廃の死地に過ぎなくなる。芭蕉の門弟各務支考を歓待し、芸能でもてなした近江商人出身平田も今は墓碑の林立する墓域が静まりかえっている。
      元禄の墓碑寒風に苦吟して
    
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        支考と句会を催した春少こと平田正根(休山)夫婦の墓            兄は春水こと平田正清の春水亭において句会、芸能会があった。  
(宝永2年(1705)4月4日、大野原村平田家3代目正清邸)
        冷麦になにそなたこそ疝気持   春少
      春少こと平田正根のこの挨拶句には俳諧本来の諧謔味がある。 
     疝気(せんき)とは、消化器系の病気で腹・腰の痛み。芭蕉・支考共通の持病     であった。
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                 俳聖 芭蕉       俳魔 支考
      (五)泪
 芭蕉は涙もろい。『奥の細道』では何回泣いて泪を流したか。
  行春や鳥啼魚の目は【泪】
  壷の碑を見て、【泪】も落るばかり也。
  功名一時の叢となり、時のうつるまで【泪】を落し侍りぬ。
  湯殿山銭ふむ道の【泪】かな
  塚も動け我が【泣】声は秋の風
    
      (六)時雨
 芭蕉は時雨が最も似合う俳人である。
   旅人と我名よばれん初しぐれ
   初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
   一時雨礫や降て小石川
   行雲や犬の欠尿むらしぐれ
   世にふるもさらに宗祇のやどり哉
   かさもなき我をしぐるゝかこは何と
   草枕犬も時雨ゝかよるのこゑ
   山城へ井出の駕籠かるしぐれかな 
 突然降ってくる時雨、情緒はあるが、蓑笠がないと濡れて冷たい。犬猿とて同じである。人を濡らす雨が動物も濡らしているという思いやりの句があることを見落としてはならない。突然の雨模様「しぐれ」に「しぐるる」厄介さ、今ならば車にも乗れば濡れないで行ける。時雨に濡れることを厭いはしないが、芭蕉はたまには駕籠に乗ることもあった。
 
   (七)バショウを植えていた芭蕉の直筆句   
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   芭蕉野分してたらゐ(盥)に雨をきく夜哉
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   (八)書風、宗鑑と芭蕉
    南無天満大自在天
      天神号一行もの  軸ものとして床の間に掛けられた。
     芭蕉(左)、宗鑑(右)の直筆をくらべてみると、その書風が全く違う。
      
    
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      (九) 蛙、宗鑑と芭蕉の句境の違い
     手をついて歌申上るかはづかな  宗鑑    諧謔・典拠のある句
     古池や蛙飛こむ水のおと      はせを   幽玄・閑寂の句 
 
      (十)宗鑑的なものへの回帰
 芭蕉の真摯な俳諧探求は宗鑑的な通俗・遊戯性からの解放・超克でありながら、晩年に到達したところは、「軽み」という軽妙、肩の力を抜くものだった。肩肘張っても、結局人間のなすことに神仏的絶対性、宗教哲学的悟道は得られないことが見えてきたのである。風流風雅の貴族的高踏からの回帰が「高く心を悟りて俗に帰れ」という結論であった。「言ひおうせて何かある」の逆説を生きねばならないのだった。
  芭蕉の風雅の世界は、庶民的現実の崩壊を逆手にとることによって築かれたと言ってもよい。肯定的な基盤にささえられた談林俳諧の朗笑的庶民性を超克する、より高次の人生的庶民詩の誕生を意味するものであった。そして、「軽み」こそは芭蕉が景気の真を把握すべく最後に到達した指導理念であり、蕉風の到達点であった。談林俳諧の否定から始まった元禄俳壇の歩みの、総決算でもあった。
 「軽み」の代表的な一句
      梅が香にのつと日の出る山路かな  はせを
 
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