小品「芭蕉讃岐行」Ⅴ

  (一) 芭蕉は一夜庵で幾夜泊まったか
 宗鑑逝きて百有余年、空家になっていた一夜庵に芭蕉は幾夜泊まったか。こんな愚問に答える前に、一夜庵の由来を解き明かしておかねばならないだろう。
 上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊まりは下下の下の客
この看板をかけて、庵主山崎宗鑑は客の長居を喜ばなかった。それでこの庵の名を一夜庵と呼ぶようになった。宗鑑はこの庵に没して460年が経つが、今なお「一夜庵」と称して親しまれている。俳祖宗鑑終焉の草庵である。観音寺市指定文化財である。
   芭蕉がここに来ていたならば、この庵を守る興昌寺さんの許しを得て、泊まらせてもらうにちがいない。今のように頑丈に建てられたものではなく、質素なたたずまいであっても、その簡素な草庵に芭蕉は十分満足するにちがいない。ただし、幾夜ではなく、一夜に甘んじたはず。何泊もこの地に留まったとしたならば、名門宇喜多家に幾夜も泊まるであろうことが想像できる。まもなく門人各務支考がちゃんとここに泊り、句会を開き、歓待してくれているのであるから、芭蕉がそれ以前に来ていたら、間違いなく、宇喜多家に数日泊まったであろうし、発句のみならず、連句歌仙を巻いたであろう。
 
              一夜庵一夜泊まりのはせを翁
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 宗鑑の生まれた滋賀県草津市と宗鑑の没した香川県観音寺市姉妹都市の縁組をした。このような関係の姉妹都市の縁組は珍しいことであると当時から言われている。
 宗鑑の一代記を小説化した拙作『俳諧の風景』が第16回香川菊池寛賞を受賞し、観音寺市草津市に働きかけ、翌昭和57年姉妹都市提携となった。以来30有余年、両市の交流は盛んに行われている。今月末近くにも20余名の団体が、観音寺一夜庵見学の予定である。私もその案内役を仰せつかっている。
 宗鑑は京都大阪の境山崎に住んでいたことから山崎宗鑑と称される。この地での俳諧文学の功績・遺跡に注目すべきもの多大である。生誕地草津市の事績はそう多くない。それでも、姉妹都市の縁組としては生没という関係で結ばれる方がきれいであろう。
  
   (三)四国への旅は諦めず
 奥の細道を終えた翌年元禄3年4月10日付如行宛書簡に「秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とある。元禄4年9月23日付中尾源左衛門宛書簡の追伸に「九州四国之方一見残し置申候間…」とある。諦めきれなかったことがわかる。年齢のこと、身体状況のことなどを考え直して、迷っていたようである。
 しっかりしたスポンサーが付いていなかったこと、芭蕉を崇拝する俳人が西国にいることを十分知らなかった。情報不足が芭蕉の決断を促さなかったようである。
 
       (四)芭蕉涅槃図 (元禄7年10月12日)    釈迦涅槃図にあやかる。
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  芥川龍之介「枯野抄」は、松尾芭蕉の臨終における弟子たちの心模様を描いた短編。芭蕉について研鑽を極めていた芥川の渾身の作品。
 末期の師匠を看取る弟子たちの態度は、弟子たちの気質や性格によってさまざまである。その態度の違いはあれ、誰もが師匠を思っているようでいて、自分のことばかりを思っているのである。師匠の死を嘆いているようで、実は師匠を失った後の自分を嘆いている態度ではないかと、冷徹な支考は考えていたと作者はみている。
  この作品には支考の「花屋日記」が参照されている。 「義仲寺眞愚上人、住職なれば導師なり。三井寺常住院より弟子三人まゐられ、讀経念佛あり。御入棺は其夜酉の刻なり。諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入ても左右なし。去來・其角・乙州等評議して、葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。昼のうちより集れる人は雲霞のごとく、帳にひかへたる人数凡そ三百人余…」
  
 
    (五)芭蕉~支考~宗鑑    イメージ 1
                     
      松涼し鶴のこころにも一夜庵     支考  
   四国香川県観音寺市の俳祖宗鑑終焉の地を訪れて
 
       支考は宝永2年讃岐に渡り、各地で発句を作っている。
      金毘羅山、神法楽…松葉散る嵐やそつと神の幣
      善通寺西行松…松を見て身を知る葛の若葉哉 
      観音寺、有明浜…ありあけの浜や昼顔咲きながら 
      琴弾八幡…琴の音や弓矢のいとま夕涼み 
      神恵院…さびしさはをのれ頼まじ閑古鳥 
      大野原…弓はりに放つ影ありほととぎす
      (六)芭蕉、支考の付合
  支考を含め蕉門十哲芭蕉の巻いた連句の中から二人の例句を挙げると
       日は寒けれど静なる岡      芭蕉
      水かるゝ池の中より道ありて   支考     『続猿蓑』(撰集の協力)
   
       嫁とむすめにわる口をこく    支考
      客は皆さむくてこをる火燵の間  芭蕉  『鳥の道』(日常性の批判)
 
       柿の落葉をさがす焚付      支考
      月にまつ狸の糞をしるしにて    翁   『鵜の音』(芭蕉逸興の第三)
 
     「糞」を詠み込んだ芭蕉の発句で、よく知られたものに次の句がある。
       鶯や餅に糞する縁の先  (杉風宛の書簡に)    
 
    (七)支考は松山まで、芭蕉宇和島まで
 支考は讃岐の西端大野原の平田家に泊り、更に伊予は松山に向かった。
 芭蕉が讃岐に杖を曳いていたならば、宗鑑終焉の一夜庵で泊って引き返したかもしれない。五十前後の老体ではここまでが精一杯であろう。ただ、穿った説では、芭蕉の母親が伊予宇和島出身であることからこの地まで歩を進めたはずだと言う。 更に言えば、芭蕉が命終えるのに最もふさわしいところが母なる故里宇和島である。大阪なんかで死にたくなかった。旅に病んで夢は枯野をかけめぐるとは、四国予讃線終着駅、伊予街道の果て宇和島芭蕉終焉の地にふさわしい。今芭蕉私は芭蕉をここに死なせる。愚息とその愚親と二人で芭蕉宇和島に葬る。それが最も芭蕉の死地にふさわしい。
 
   (八)母は宇和島出身
 芭蕉の母親は藩侯の移封とともに伊賀名張に移ってきた桃地氏の娘と言われ、父と同様一定の格式をもった家の娘であった。二男四女をもうけ、芭蕉は次男。天和3年(1683)芭蕉40歳の6月20日に死没。松尾家の菩提寺上野農人町の愛染院に葬られている。 
  芭蕉の門人服部土芳伊勢国藩士。『芭蕉翁全伝』で「母は伊与国宇和島産、桃地氏女」と記している。愛媛県から三重県に移ったのは、藩主藤堂高虎宇和島から伊賀上野に移動したことによる。
 
   (九)父母のしきりに恋し雉子の声
   ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 (笈の小文)
  貞亨5年(1688)春、芭蕉が杜国と高野山を訪れて詠んだ句。 父松尾与左衛門33回忌、母没後5年の時だった。
  山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ(行基)を踏まえる。
    旧里や臍の緒に泣としのくれ(笈の小文)は兄半左衛門の家での作。
 
   (十)藤堂家ゆかりの宇和島
  芭蕉(宗房)は、藤堂家に縁がある。藤堂高虎が先祖の伊賀・上野。芭蕉は藤堂良勝の孫、良忠に仕える。良忠(俳名、蝉吟)が25歳の時、病死したため近習として仕えた芭蕉は、その年辞職して伊賀・上野を離れ、俳諧に専念する道を歩んだ。自分の仕えた本家筋藤堂家の そもそもの淵源はここ宇和島だ。そして、母の故里でもあるのがこの僻陬の地宇和島だ。