小品「芭蕉讃岐行」Ⅳ
(一)継信・忠信の妻
かつて、福井飯塚の里で見た佐藤継信・忠信殉死の標に涙した。二人は義経の身代わりとなって死んだ兄弟。その妻たちの後追いの死。その「あはれ」に涙するのだった。後の世に蕪村が描いた二人の嫁の健気な出で立ちに心惹かれる。刀剣を持ち勇ましくたち向かおうとするとする女丈夫。甲冑、刀剣を身につけた甲斐甲斐しさ。義経の身代わりとなって討ち死にした継信・忠信の母はその嫁たちの後追いのけなげさゆえに更に袖を濡らすのだった。
この二兄弟の墓は郷里福島はもちろん、四国高松にはそこで斃れた継信の墓がある。
[蕪村筆] 継信妻、忠信妻はその母に夫の姿をして見せる場面。
二人の妻の出で立ち (福島の菩提寺 医王寺所蔵)
(二)兵どもが夢の跡
屋島に来れば、奥州平泉の旅で詠んだ句が思い出される。
夏草や The summeer grasses
兵どもが O brave soldiers dreams
夢の跡 The aftermath
「夏草」は「枯草」でもいい、栄枯盛衰を感じさせるものであれば
西行が北面の武士でありながら、源平の武士の争いに背を向けて出家したのに対して、芭蕉は元禄天下泰平の世に俳諧風雅の世界を堪能できた。現世の人の争いに仏道と歌道をもって抗いの姿勢を示した西行に対し、芭蕉はぬるま湯に浸かることを避けて俳諧行脚の修行を課した。仏道信仰に救われようとはせず、ひたすら俳道に精進、風雅の誠を究めようと努めた。芸道の一つとしての俳道である。
求めるものは「身を滅ぼす戦ではなく、心を深める俳諧の道」それを樹立することであった。
(三)義経戦勝祈願の鳥居
源平屋島合戦が始まろうとしていた時、義経は策を案じた。伊予から平家の援軍田口教経が参じようとしているのを知り、ここ琴弾八幡十王堂で止めようとしたのである。「貴方の父親教能は既に降参している。屋島に行っても戦いの決着がついているから無駄である。ここから引き返した方がよい」と部下に言わせた。それを信じて援軍は諦めた。知将義経にまんまとだまされたのである。
さて、芭蕉がこの鳥居を見たならば、どう思ったであろうか。義経の末路を憐れんで奥州では涙を流したのだったが、ここでは勝ち戦の策士であり、勢い猛なる時の営みを頼もしく思ったであろうか。勝ち戦の策略をめぐらす知将には心惹かれなかったであろうか。すべては仮想の話であって、聞き流すしかない。
元暦二年(1185)奉納した木の鳥居が800年を経て朽ちかかっているものの、栄枯盛衰の譜を奏でている。
(四)我芭蕉一夜庵に泊まって、表十句を書きおく。
一夜庵夕顔白き後架かな
蔭膳で師宗鑑と酌み交わす
雪を待つ上戸の顔の照り増しぬ
雪の客馬より落ちよ酔の客
酔うて寝む昼顔の満つ有明浜
浜鵆友まどはして闇の中
檜笠ここに残して反笠着む
我や蝶荘子が蝶か夢心
最果ての讃岐に俳祖息づいて
一夜庵幾夜寝れども春気満つ
さすらいの旅をして来ると、己と同じ境涯にあるものに共鳴のことばを投げかけたくなる。冷え凍える川尻の鴨にもそっと声をかけたくなる。鴨よ、お前の足は冷たくはないかと。どこから飛んできたのかと。何を言っても思っても、応えてはくれない。人が孤独であるように、鳥も孤独なのにちがいない。群れていても、畢竟生きとし生けるもの皆独り身の淋しさに堪えて生きている。そして、いつかどこかで死んでいく。 人は生きた証しの墓を建てたりするけれど、人以外の生き物には墓がない。そのすがすがしさがたまらない。かつて我が形骸を義仲寺に葬らせてしまったが、桃青本来の魂は今なお宙をさまよい、ここ四国讃岐路の果てまで辿り着いてきている。何ものにも捉われない俳境に遊び、風雅を友に絶対境に生きることの至福はどうだろう。身に絆しのない爽やかさ、子孫の栄えゆくを楽しみに生きる老いぼれ爺とは違う我に我執はない。羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念はあの奥の細道の旅に感じたままである。道路に死なん是天の命なのである。天の道なのである。何も要らない。何も持って死ねない。現世の持ち物はみな捨てて、入信せよとの世俗の宗教とは違う。人間の為すものは自然の生き物の本道を外れて、まさに邪道を歩んでいる。宗教さえ捉われであることを悟らずにいる愚か者よ。静かに、静かに、自然のまま、自然の生き物のまま、そのままで生きること、無念、無想であることの大切さ。今、それを教えることのできる人はいない。神にも仏にも頼らず、自然のままに徹すること、自然の中に浸ること、没入すること。ああ、今我は無我の境地でここに居る、確かに存在していることをそっと伝えたい、遍在する心貧しき人々に。
(六)俳祖終焉の地
翻然と我に返ってみると、芭蕉は砂嵐をかむって砂浜に横たわっていた。ここ遠浅の海辺は燧灘。対岸は安芸・備後の中国地方だった。もうそこを経て九州まで行く気力も体力もない。ここ四国は讃岐の西の果て。宗鑑終焉の地であることは意識せざるをえない。自分もまたここで終焉を迎えて悔いないこの地への愛憐の情を覚えていた。
(七)ある時は里の童と
里の童「ここはナ、昔宗鑑さんが住んでいた所なんだ」
芭蕉「そうなのか。なにか面白い咄でも伝わっているかネ」
里の童「宗鑑さんの字がうまいのは、菅公さんに教えてもらったからだって。ある夜走り使いのボクのような童が宗鑑さんの手を借りていって、翌朝その手を返すと、すごく字がうまく書けるようになっていたのだって」
芭蕉「そうなのか、宗鑑の字がうまいわけは、そんな伝説があったのか」
里の童「芭蕉さまとやら、短冊の何か一句書いていただけませんか」
(八)ある時はありのすさびに
高く心を悟りて俗に帰るべしとは、誰の言った言葉か。もちろん自分だろう。いつもお高く止まっていないで、俗に下りること、それは俳諧師としてというよりも人として大切なことではないだろうか。俗の中にかえって雅なるものが潜んでいるものだ。そのものを失ってみれば分かるものだ。
(九)不易流行
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」とは、不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない。どちらも大切。そこを乗り越えなければ、本物にはなれない。
(十)今日この日この時を誠実に生きる。
こんなお説教をする人は文学者ではない。俳諧に志す者は、自らの新しくも永遠を感じさせる創出を志す者である。言うは易く、行うは難し。俳諧師はまこと俳諧の師(リーダー)でなければならない。単なる俳人に安んじてはならない。俗中の俗にあっても、俗中に美を見出すこと、更には雅の心を見出す高い次元、そのことを矜持として抱き、誠の俳諧を極めようとしたのだった。芭蕉は一所に留まることに飽き足らず、常に前を向いて進む人、志高き姿勢の人間だった。