三豊干拓

  香川県観音寺市の三豊干拓地は、観音寺市柞田町と大野原町にかけ、水田75ha、農業施設5ha、計80haの農地等が広がり、水稲、レタス、青ネギなどが栽培される他、牛舎や堆肥舎などの畜産施設、イチゴ、キュウリ、トマトなどを栽培する園芸施設が立地している。
 
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               干拓と開拓
 燧灘の東海岸。その遠浅の砂浜を干拓地とする事業が推進され始めた時、誰も反対する住民はいなかった。漁業らしい漁業も行われず、ただむなしく広がる砂浜が干拓され耕地になれば作物が作れることになる。終戦直後、引揚者が多く食糧難で対策として企画実施されたものだった。
 今ならば、そう簡単にこういう開発事業は推進できない問題が発生する。有明湾埋立訴訟とか頓挫してしまう例が多いが、この当時ここ三豊干拓は土地の有力者の熱意がこの事業を予定通り遂行できた。防潮堤中央排水溝付近にその記念碑が建っている。
 干拓地には入植者が近辺農民から選ばれてなった。五反百姓の多い当地では、少しでも耕地が増えることは喜ばしいことだった。
 区画整理の行き届いた広々とした干拓地。大小形さまざまな既耕地と違って農作業もし易く、加入者の好評も得た。ただ砂地のため肥沃土とは言い難いものだった。
 なぜこの干拓地にこだわるかと言えば、ここに行けば、満洲開拓地を髣髴とさせる風景に見えるからである。見渡す限りの果てしないほどの大平原の風景とはあまりにも大きな差があるのだが、それでも住宅のない広漠とした田地が広がる干拓地に行けば、満洲の片鱗を感じることができる。
 郷土のせせこましい土地を捨て、新天地を求め満洲開拓団団長として大陸に進出した戦中時代に思いを馳せる。戦後は侵略者扱いとなり撃退された満洲開拓。その反省のもとに引揚げて帰国していれば率先してこの地の干拓事業の推進者になったと想像する父。そのような思いを馳せながら、そしてまた芭蕉を遺言状の冒頭に記した父の誠心誠意に思いを馳せる。夜、ここの周辺を歩いていると闇の中に父の面影を浮かべることができる。さらにはまた芭蕉の旅姿を思い描くことも。この海岸をかつて元禄時代に伊予に向かって母の里を求めて歩いていったかもしれない燧灘沿岸なのである。伊能忠敬が測量に伊予から讃岐に入ったのとは逆に西下するのである。すべては夢幻能。