高橋和巳の最期

     高橋和巳の最期   
 
 今最も近しい文学者は、高橋和巳である。本籍が同じ柞田町であり、母校の先輩であり、その志に共鳴するところが大きい。「志のある文学」とは、和巳自ら唱えている文学志向の基本姿勢である。   
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 遺族に保存されていた遺影(縦一三・五㌢、横九・五㌢)をいつも我が机上に飾っている。めったに見られない端正な和服姿である。鎌倉での告別式祭壇にもこの写真が飾られた。
 
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兄長巳の長年住んでいた西成の実家が売りに出されるとき、親戚に譲られたものをもらい受けたものである。
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不惑四十歳の若さで逝った夭折の作家。平均寿命の半分しか生きられなかったので、「夭折」と言えるかもしれない。
以下、妻高橋和子の東京女子医大入院中の「臨床日記」によって末期の様子を略述しておきたい。
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昭和四十六年(既に死後四十二年経過)のこと。
四月二十四日、意識がすこしはっきりしている時に、小田実氏、大江健三郎氏ほか六人が最後の別れにこられる。一人一人がはげましの言葉をかけてくださり、主人は「今がいちばんどん底で、すこしずつよくなってきているようです」と答える。
五月二日、(和巳の最も尊敬していた)埴谷雄高(高く深く精妙をきわめたメタフィジックな思索家)が見舞いに来る。 主人の右手をとって腕をさすってくださる。「もったいないみたいやな」と私がそばから言うと、「もったいない」と小声で言い、「うれしいね」と私が言うと、「ふん」とうなずき、別れ際に、にっこり笑う。今夜からモルヒネの量ふえる。
三日() 早朝、四時前、震えがくる。…六時半。すべてを病院の処置にまかせる。多量のモルヒネで意識がなくなるとともに、主人はやすらかな昏睡状態にはいった。八時ごろ。湯で顔と手を拭いてやる。毛布の乱れをなおしてやる。右の眼尻に一滴の涙がこぼれていた。泣いてるの? と私は言って、それを指先で拭きとった…。
埴谷氏が、高橋君、と耳許で大きく呼ばれた時だけ、主人は両眼をひらいた。十二時ごろ、母(慶子)と下の弟(佐喜雄)が大阪から着く。母が、和巳、和巳、と泣き叫ぶと、右眼だけがすこし反応した。私は一度も呼ばなかった。血圧はますます落ち、薬による昏睡から自然の昏睡へとうつり、規則ただしい呼吸が長くつづく。祖母(コマ・二日前の五月一日死去)の葬儀が終ってから東京に向いつつある兄(長巳)、上の弟()、上の妹(佐恵子)、下の妹(絹代)の到着を待つうちに、深夜近くなって、ふいに呼吸が間伸びしてきて、息が薄くなったかと思うと、息絶えた。十時五十五分。病名()を知らず、不可能な時間を夢みたまま、主人は命を終えたのであろう。安らかな顔であった。(「文藝」臨時増刊・昭和四十六年七月・高橋和巳追悼特集号「高橋和子・臨床日記」)
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四日、近親通夜。五日、一般通夜。
六日、密葬。           六月十七日、大阪市東住吉区瓜破霊園の高橋家の墓に納骨。母の希望で浪速寺の中田明道師により「大慧院和嶺雅到居士」の戒名を授かる。
八月三日、富士霊園三区一番八六五に納骨。墓碑に彫られた「高橋和巳」の文字は埴谷雄高の筆になる。
さて、小説家高橋和巳の最後の作品に触れてみよう。   
 遺稿「遥かなる美の国」は序章のみで中断している。その最後の部分は次のようになっている。
 ここで高橋和巳の絶筆となっている意味は大きい。宇高連絡船の中で向かい合って座った引揚げの父娘のことは、これまで何回か触れてこられた。
 自分は中学二年生、向かい合った女性は自分と同じか一つ上くらいの清楚な女学生。満洲から香川県に引揚げて帰ってきたこの娘に対して、心惹かれ、それをなんとか小説化しようとして、命尽きたのである。そういう意味で宇高連絡船において会ったこの少女こそ、高橋和巳の永遠の女性であったと言えるかもしれない。その人は誰であるか、知る由もないが、ふとあの人かもしれないという女性をひそかに思い当てているのだが…一目ぼれかもしれない。
 二人の間には子どもがない。埴谷雄高も同じ。肝胆相照らすメタフィジックところがあるのは、僅かながらそのことが起因しているかもしれない。