西行・芭蕉、高野山

 
 西行の後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめ、宗祇・芭蕉に至るまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていった。宗祇・芭蕉にとっての西行は、こうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかった。そして『撰集抄』『西行物語』など説話や伝説が生まれていった。例えばに『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる伝承が残っている。
 保延元年(1135)、23歳で出家した佐藤義清(西行)は、鞍馬山や東山、洛西嵯峨に庵を結び、30歳頃から約30年間にわたって高野山に住んだその間、度々草庵を出て、都だけでなく吉野山、遠くは四国まで足をのばした。都では鳥羽上皇の葬儀に参列し、まもなく起こった保元の乱で敗れ、仁和寺にいた崇徳院のもとにも馳せ参じました。四国讃岐では、この地に配流後、亡くなった崇徳院の白峯御陵に詣で、弘法大師生誕の地善通寺を訪ねた。 (小生の郷土) 西行入山の動機は、焼亡した伽藍の復興にあったと思われ、大塔造営奉行の平忠盛・清盛の西八条邸に高野聖とともにした。
     いつの間に長き眠りの夢さめて驚くことのあらんとすらむ 
 迷いや心の弱さを高野山の修行を通して悟りに至ろうとした。 また、風雅を解す数寄人としての一面が世俗的な西行という人間の魅力といえる。 そんな西行高野山で友としたのが「月」である。
    深き山に心の月し澄みぬれば鏡に四方のさとりをぞ見る
   世の中の憂きをも知らで澄む月の影は我が身の心地こそすれ 

 西行を慕っていた芭蕉は貞享4年10月江戸を出発し、翌年4月明石に至る俳諧紀行が『笈の小文』である。途中、花の吉野を経て高野山へ立ち寄った際、詠んだ句「ちゝはゝの しきりにこひし 雉の声」がある。その句碑は奥の院参道・中の橋を過ぎて御廟近くにある。 「はせを翁  父母の しきりに恋ひし 雉子の声」 と刻まれてい.る。
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